ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.663

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と四

「ナットク ノ イキザマ ナットク ノ カオ」

 若いときは、パーツの造形具合やら、それらの配置具合やら、に、どうしても目が行きがちなのだけれど、そんなもの、あくまで期間限定なものであるわけで、行き着くところ、顔は、その人の生き樣によってつくられる、と、シミジミと語り始めたAくんのその「顔は生き樣」理論に、興味津々に耳を傾ける、私。

 「我々人間は、心から納得できることだけで生きていけるわけじゃない。そんなことは僕にだってわかる。たいていの場合、現実は、人生は、ズキズキとするほど残酷で、致し方なく、背に腹は代えられず、納得できないことに手を染めなければならないことのミルフィーユ状態、なんだな」

 なるほど、と、・・・なるほど、とは、思う。

 「でも、そうした不本意ミルフィーユ状態を、不本意だとは思わない、むしろ好む、みたいな人たちもまた、この世の中にはいたりするわけでしょ」、と、よせばいいのに、おもわず口を挟んでしまう。

 「その通り!」

 えっ。

 「顔が生き樣、とは、まさにそういうことで、善も悪も、陰も陽も、上も下も、右も左も、納得も不服も、ナニからナニまで全てをひっくるめたそうした生き樣が、顔をつくる、ということだ」

 納得も不服も全てをひっくるめた生き樣が、か~。

 でも、でもやっぱり、ほとんど神業みたいなものなのだろうけれど、納得の生き樣、納得の人生、が、つくる、「納得の顔」に、どうしても憧れてしまう。

 なぜなら、親しいとまではいかないが、私の、数少ない知人の中の、様々な業種にわたる「損得じゃねえんだよ」的な、そんな職人気質の方々のその顔には、必ずと言っていいほど、実に穏やかな「納得」の2文字がシッカリと刻み込まれているからである。(つづく)