はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と壱
「カミ ト トウヒ ハ」
些細なコトでも捨て置けないコトになりがちな私たちの「心」なだけに、ソレが空前絶後のトンでもないコトともなると、どうしても乱れる、折れる。場合によっては、乱れる、折れる、などという程度ではおさまらず、病にまで至ってしまう。
国力どころか星力をあげて、科学の力で、心も含めた全てをコントロールしようとしてきたこの星ではあるけれど、残念ながら、そうした力任せの野望も抗いも虚しく、結局のところ、古(イニシエ)から、我々人類の心の有りようなどというものは、ナニも変わることなくそのまま現在に至っているように思える。
つまり、いつの時代も、悲しいぐらい人の心は脆(モロ)く、乱れやすく折れやすく、壊れやすいのである。
そんなことを重くブツブツと独り言ちていると、突然、Aくんが割り入ってくる。
「だからこそ、古より、我々は、この両手を、こうして合わせてきたのだろうな」
両手を合わす?
手を合わす。
手を、合わす、か~。
Aくんと同じように、自分の両手を胸の前あたりで合わせてみる。
そう、そう、そうなのかも、しれない。
いや、きっとそうだ。
そんな気がする。
「理屈やら科学やらを軽く飛び越えたモノに、手を合わす。それは、一種の逃避のようにも見える。見えるけれど、それでもいいじゃないか、ナニが、ドコが、悪いんだ、って、僕は言いたい、わけ」
逃避を肯定するその姿勢に、なんとなく、Aくんらしくないな、と、思ったりもするけれど、理解できなくもない。なぜならば、Aくんも、もちろん私も、そんなに強くなんてない、から、で、ある。
「これだけ、アレやらコレやらとトンでもないコトに見舞われるのだ。超越したモノに身を委ねることで、乱れた心が、壊れようとしている心が、つかの間でも解き放たれ、浄化され、穏やかになることができるのであれば、それが逃避であろうがなかろうが、神様に手を合わすコトもまた真なり、ということだ」
そういえば、心なしか、町中(マチナカ)の小さな神社あたりで、手を合わすサラリーマンたちの姿を見掛けることが、増えてきたような気がしなくもない。
「言うなれば、神と逃避は髪と頭皮。つまり、髪の毛の命であるキューティクルが痛んで、ハリもツヤもなくなり、オマケに抜け毛までも、などと、エライことのオンパレードみたいなことになってしまったときには、髪の毛ばかりに目を向けるのではなく、その出どころである頭皮もまた、結構大事なんだぜ、ということも忘れてはいけない、ということだな」
申し訳ないけれど、ソレはちょっと、違うような気がする。(つづく)