はしご酒(4軒目) その百のと八十六
「モノノミエカタ ガ カワル」③
そんな、ゾワッな気分に陥ろうとしている私を尻目に、Aくんは、自分自身の考えを確認するかのように、ボソリと。
「モノの見え方が変わることの、その方向性に、その向きに、一抹の不安があるからこそ、だからこそ、教育が大事なんだ、ということなのだろうな」
突然、ある人の、ある言葉が蘇る。
「子どもたちは、乾き切ったスポンジみたいなもの、ナンでもカンでもガンガンと吸収してしまう」
あのとき私は、その、ある人の、その、言葉の、その、ラストが、どうしても、どうしても、気になって仕方がなかったのである。
なぜこの人は、「吸収する」でいいところを、わざわざ、あえて、「吸収してしまう」と言ったのだろう。まるで、吸収することが良くないことであるかのように。
すると、さらにボソリと、Aくん。
「教育は、洗脳ではない」
ほとんど、過去へ、ワープしかけていた私は、その鮮烈な言葉によって、現在に、グイッと引き戻される。
そしてAくんは、熱く、語り続ける。
「教育は、洗脳ではない。コレは正論だけれど、正論そのものが、その時代時代で、ねじ曲げられてしまうことがあるだけに、じゃ、教育と洗脳との違いは?、と、問われても、正直、わからなくなる」
何気なくAくんに尋ねたことが、ちょっとした教育論にまで発展しそうな気配に、たじろぎつつも、なんとなく、ボンヤリと見えてきたものがある。
ダレかとの出会いが、ナニかとの出会いが、子どもたちをも変えてしまう。ソコに、「教育」が大きく関わっているとするならば、やはり、教育の責任もまた、とてつもなく大きい、と、言わざるを得ない。あとになって、アレは間違っていたんだ、では、到底、済まされないのである。そんな思いがフツフツと湧き上がってくる。
「万が一にも、その教育が、真理ではなかったとしたら、平和も正義も、愛も、教育というベールに包まれた洗脳という悪魔の所業によって、大きく様変わりしてしまう可能性も、危険性も、常にはらんているということだ」
Aくんの熱き語りの、その壮大な展開に、さらにたじろぐ私ではあるけれど、その、燃え上がる「教育と洗脳」論に耳を傾けていると、なんとなく、あのときの、あの、「吸収してしまう」のナゾが、僅(ワズ)かながら、解けたような気がしてくるのだ。(つづく)