ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.140

はしご酒(2軒目) その四十二

「キョウフ ノ セニハラハカエラレヌルヌル」

 いつのまにか、この世は、「背に腹はかえられぬ」時代に、突入してしまっているような、そんな気がしている。

 この故事・ことわざ、ザックリと説明すると、腹のために背を犠牲にすることもまたやむなし、と、なる。腹は致命傷になるからだろう。そういえば、熊に襲われそうになったら、うつ伏せになって、両手で首を守れ、みたいなコトを聞いたことがある。そして、「やむなし」は、致し方ない。つまり、他に選択肢がない、ということ。

 致し方ない、のだから、致し方ないではないか、と、納得するしかないような気もしなくはない。が、なんとなく怪しい臭いがプシュンプシュンとしてくるものだから、とかくこの世は、ナゾがナゾ呼ぶナゾナゾワールドなのである。

 さて、この臭(ニオ)い、いったい、ドコから臭ってくるのか。

 すると、「背がかわいそうやな」と、ボソリ呟くOくん。ソコに、「背は、腹の犠牲になることを納得してるのでしょうか」と、乗っかるお兄さん。さらに、「納得なんかしてへんやろ。腹は、そんな説明もお願いもしてへんはずや。だいたいからして、腹はやな~背を軽んじてる、間違いあらへん」と、ズンズン声が大きくなるOくん。

 おそらく、その臭いは、誰かが勝手に「腹」と「背」の二者を格付けした、その時あたりからジワリジワリと腐敗し始めた、その、ヌルヌルとしたドロ沼のようなトコロから臭ってくるのだろう、と、私は思っている。

 そう、格付け。

 腹が上で、背が下。

 たしかに、医学的に、とか、生物学的に、とか、というのであるならば、わからないわけではない。とくに、東洋医学と違って西洋医学はそもそもそういうものなのだ、と、ギリギリ、理解もしている。つまり、救う部位のために、ある程度の犠牲はやむを得ないのである。

 しかしながら、仮に、こんな考え方で、政治やら、教育やら、福祉やら、農業やら、食やら、伝統やら、文化やら、まちづくりやら、に、臨んだとしたらどうだろう。おそらく、そうした考えで臨んできたがゆえに、この国も、この星も、こんなコトになってしまったのではないか。と、思えてならない。

 私は、勝手に格付けをして、ニヤリとほくそ笑みながら弱きモノを犠牲にする、その得体の知れないナニかを、ヌルヌルドロ沼に棲みつく「妖怪セニハラハカエラレヌルヌル」と呼んでいる。 

 たしかに、この妖怪、かなり手強い。

 ナゼか、支持者も多い。

 だがしかし、100年先を見通した正義と英知と行動がありさえすれば、この、とことん怪しい恐怖の妖怪を、必ずや封印できる、と、私は信じている。(つづく)