ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.298

はしご酒(4軒目) その四十九

「カレル!」

 そんな沁みる噺家の一人に、笑福亭松鶴がいる。1986年、68才で亡くなった上方落語の重鎮である。

 どこまでも大阪なOくんは、落語に関しては、なぜか、キッパリ江戸落語、と、豪語する。私も、小粋で鯔背(イナセ)な江戸落語が、それはそれで嫌いではないのだけれど、それでも私は、晩年の笑福亭松鶴の落語が好きだ。とくに、彼が演じた古典落語の『らくだ』は、枯れた味わいに満ち溢れ、一つの到達点のようにさえ思える。

 と、思っていたら、当の本人は、そんな晩年の自分自身の落語に、全く納得していなかったらしく、そのことに、かなり驚いたことを覚えている。

 「枯れる、って、どういう意味だと思います?」、と私。

 「枯れる?、枯れるね~・・・、終焉が見える、見えてくる、力が抜ける、抜けてくる、そんな感じかな」、とAくん。

 抜けてくるその力が、若さゆえの、いわゆる「力み」のようなものであったとしたら、「枯れる」もまた良し、ということになるのだろうけれど、おそらく、松鶴師匠にとっての、その「力」は、「力み」なんてものではなく、自分の「力量」そのものであり、抜けてくる「力」とは、その「力量」の衰え以外のナニモノでもなかったのだろうな、などと思ったりしているうちに、なんだか少し悲しくなってくる。

 そして、私の愛聴盤である、バド・パウエルの最晩年(とは言っても、彼は41才でその一生を終えているのだが)の傑作、枯れに枯れた『ブルース・フォー・ブッフモント』に、針を、無性に落としたくなる。(つづく)