はしご酒(2軒目) その六十四
「ムカンペキ ナ カンペキ」
「完璧」とは、いったい、ナンだろう。
たとえば、ダイレクトに命に関わってくるようなコトに関しては、人は、やはり、どうしても、完璧を求められる。完璧であってこそ、その命が救われる、守られる。その重責に、おもわずたじろいでしまいがちだが、ソレは、正しいと思う。
だから、それゆえ、なのかもしれないが、どうも、ダイレクトに命に関わらないのであれば、べつに、完璧でなくてもいいのではないか、と、考えるように考えるように、無意識のうちに導かれているような気がしている。
そう、完璧でなくて、いい。
むしろ、完璧でないから、いい。
完璧ではないゆえの、少し足りない、少し欠けている、少し緩んでいる、の、その「少し」が、人を、なぜかホッとさせる。リラックスさせる。おそらく、人は、その「少し」に救われるのだろう。
では、ナゼ、救われるのか。
なんとなくながら、私の中には、「完璧にこなす」にへばり付く「緊張感」や、「そうあらねばならない」という「強迫観念」のようなモノに、人は、プレッシャーを感じ、知らないうちに、エナジーを吸いとられていくような、そんなイメージがある。ひょっとすると、そうならないための自己防衛本能の一つ、なのかもしれない。
そもそも人は、完璧ではない。
完璧ではないのに、完璧を求められる、求めなければならない。ゆえに、疲弊する。疲弊するどころか、完璧にこなせられない自分に、失望したり、自暴自棄に陥ったり、してしまうことも。そして人は、更に一層エネルギーを吸いとられ、目一杯疲弊するのだ。
復活が(「サイタマ~」が)、極めて難しくなるほど疲弊するその前に、完璧な完璧ではなく、あと一歩足りない「無完璧な完璧」こそが、心底生マジメな一般ピーポーに、優しく寄り添ってくれる心地良い完璧なのだ、と、思うことが望ましい。というか、思わなければ、きっと、マジで取り返しがつかないコトになる。
無完璧な完璧。
そう、無完璧な、完璧。
コレもまた、実にいい響きだ。
(つづく)