ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.144

はしご酒(2軒目) その四十六

ノンポリニュートラー」③

 そう、めざせニュートラー。

 ニュートラルなトコロに我が身を置いて、いつだってクールに、深く、深く考えられる、そんな私で、私たちで、ありたいと、それなりに勇ましくニュートラー宣言させていただいたわけだけれど、いかんせん、この世の中は、周囲の人(とくに、影響力のある、シモジモじゃないエライ人。いや、そういった方々に限ったことではないかもしれない。結構、ごく身近な普通の人)の、意見で、さらには世論で、世界の大きな流れで、潮流で、自分の考えというものが、なんとなくカタチづくられてしまう傾向にある、ということもまた、残念ながら、否定し切れない。

 まさに、流される。流されてしまう。と、いうヤツである。

 それでも、とにかく、そんな周囲に振り回されることなく、結論は、自分で出す!、という意気込みだけは、意地でももち続けていたい、と、思ってはいる。

 ただ、以前から、そうは言っても、という、また別の、もう一つの疑念が、私の中にある。

 そう、もう一つの、疑念。

 ソレは。

 たとえ、熟考に熟考を重ねて出したかのように見える結論であったとしても、所詮は自分よがり、自分という小さなフィルターで世界を見ているに過ぎないのではないか、という疑念である。

 そう、外からも、内からも、人からも、自分のフィルターからも 負の影響を受け、狭く狭く、内へ内へ、小さく小さく、硬く硬く、なっていくような、そんなイメージ。

 そんな、そんなイメージっぽく、ズルズルと、ヤヤもすると、どうしても、ソチラ側に引っ張られがちな私ではあるけれど、私は、私として、私というものを大切にしながらも、できる限り、好き嫌いを遠ざけ、偏(カタヨ)りをもたず、異なる意見に耳を傾けながら、クールに考え、最終的には、その企画・製造最高責任者として、ホットに結論を出す!、ことが、無難に生きることに命を懸ける単なる中立主義者でもエセ平和主義者でも、もちろん、ノンポリなどでもない、めざすべき真のニュートラー像であると、(人知れずコッソリと、ながらも、相当な決意をもって)思っている。(つづく)