はしご酒(2軒目) その三十八
「ゼツメツキグショク」
人には、それぞれ、得意不得意(コレだけは任せてほしい、でも、ソレだけは勘弁してほしい)が、ある。つまり、もって生まれた能力は、人の数だけアレやコレやとあるのだけれど、もって生まれた不得意、苦手、もまた、人の数だけアレやコレやとある、というわけだ。だからこそ、世の中には、アレやコレやの職業がなければならない。そうでなければ、一人ひとりが、もって生まれたその能力を仕事に発揮することなど到底できやしない、どころか、致し方なく、苦手分野で頑張ることを強いられる中で、人は、ドンドンと疲弊していくのだ、というのが、Aくんの持論である。
ピーポーは、多様性。
だからこそ、この世の中もまた、懐(フトコロ)の深さで、広さで、多様性で、ピーポーたちのその多様性を受け止められるモノでなければならない、というコトなのだろう。
にもかかわらず、残念ながら、この国は、アレやコレやの職業が、ジリリジリリと消えつつあるようだ。とくに、いわゆる、ものづくり的な、職人技的な、そんな、分野の、業界の、業種に、職業に、その「ジリリジリリ」を強く感じる。
おそらく、機械化、IT(アイティー)化、ワールドワイドなグローバル化、さらにはAI(エーアイ)化、と、いった、そのあたりの経済効果的には「いいね!」が期待できるのかもしれない合理化が、そうしたジリリジリリに大きく関係しているのだろう、とは思う。とは思うが、おそらく、ソレだけではないだろう。
もう一つの、ジリリジリリの要因。
ソレは、この国の、ピーポーたちの内なるトコロから、「モノ」、「コト」、に、対する「コダワリ」が、ものすごいスピードで、勢いで、なくなってきつつあるのではないか、ということ。それゆえ、マガイモノとまでは言わないけれど、大量生産が可能なホンモノではないモノが、同じように、ものすごいスピードで、勢いで、台頭してきてしまったのではないだろうか。
そう、ホンモノではないモノの、台頭。
その台頭が、ジリリジリリと「絶滅危惧職」(急激な時代の流れの中で、勢いづく合理化に翻弄されつつ、絶滅が危惧されている職業のことを、私は、そう呼んでいる)を増やしてきた、その要因の、大いなる一つであるように思えてならない。
いったん、この国から消えてなくなってしまった職業は、そして、その技術は、おそらく、そう簡単には、どころか、もう二度と、復活できない。(つづく)