止め肴 その三
「チョー チョーキ!」
Aくんは、難しいコトかもしれないが、常に百年先のビジョンを見据えていないとダメだ、と宣う。(原子力発電なんて一万年先のビジョンを見据えるぐらいでもいいぐらいだ、と、私は思っているけれど)
たとえば、農業。
まず、今、考えられる、コウあるべき「百年先の農業」をセットする。ソコからジワジワッとフィードバックしていく。そして、今なすべきことを考える。実行する。一例を挙げるとするならば「米づくり」。「若者たちの米離れ」などというバカなことを呑気に宣っている場合ではない。守らなければならないモノは守らなければならない。せめて、主食でもある「国産米(玄米は、ほぼ完全食品だし、食物アレルギーだって他の食材に比べて圧到的に少ないし)」ぐらいは、永遠に消費税0%で良いのではないだろうか、というのが、Aくんの持論。
( 「国産米」だけを優遇するなんてできるわけがない。 輸入米やら他の野菜やら果物やらお肉やらからクレームが出るに決まっている、などというコトになるのだろうな~きっと)
たとえば、政治。
ソレを担当し、全責任を担うはずの政治家ではあるけれど、どうも自分の任期中にナニかしらの「業績」、「足跡」を残したい、という気持ちがヤタラと強いような気がする。過去を振り返ってみても、慌てて無理やりゴリ押ししたような、その場しのぎの記念碑的政策たちに、たいしたものは見当たらない、どころか、未来に対して、トンでもなく罪深い、という場合まであったりする、というのが、Aくんの持論。
(その場しのぎと揶揄されようが、現状に対して、とりあえず即効性が期待される一手こそが必要なのではないのか。政治家たるものが、その一手を打たないなどという、そんな無責任なコトが許されるはずがない、などというコトになるのだろうな~きっと)
たとえば、教育。
ついつい枝葉の部分ばかりに目がいく。目先のコトに目が奪われ、幹が見えなくなる。幹が見えなくなると、必ずブレが生じる。そして、時折、「シモジモじゃないエライ人たち」の忖度まみれの思いつきまでもが、教育現場に押し寄せてくる。おカゲさまで幹はスッカリ空洞化、ソコにはもうナニもない、というのが、Aくんの持論。
(そもそも「幹」ってナンなのだ。そんなものを気にしていたらフットワークが悪くなるだけだ。あのしなやかな竹を見てみろ、幹は空洞ではないか、なんてコトになるのだろうな~きっと)
悲しいかな、この国は、Aくんが熱く訴える「超長期スパンでモノゴトを考える」、ということがホントに苦手なようである。
ナゼだろう。
「超長期スパンでモノゴトを考える」、このコトができなければ、あの原発問題も温暖化問題もプラスチック問題も含めたアレもコレも、必ずや未来は、トンでもなく暗く重いモノになる、と、いうのに。(つづく)