はしご酒(Aくんのアトリエ) その五百と十五
「ジャ ヤメレバ イイジャナイカ」
「雇用の流動化」
ん?
「働かせる側も働く側も、共に強者であるなら、その『流動化』、経済をよりフレキシブルに、アグレッシブに、パワフルに、してくれるかもしれない」
ん~。
「しかし、恵まれた一部を除いたら、ほとんど、働く側、労働者は、強者とは言えんだろ」
あ~。
「弱者にとって、流動化は、不安を助長させるモノ以外のナニモノでもない、ということだ」
なるほど。
「圧倒的に強い立場である働かせる側に、『じゃ、ヤメればいいじゃないか』というオキテ破りの捨てゼリフを、吐き捨て易くしてあげたようなものだ」
たしかに、働く側の立場が弱ければ弱いほど、イヤならどうぞ、文句あるならどうぞ、ヤメたいならどうぞ、お勝手に。という、そんな感じの圧力に、もう身動きがとれなくなってきているような気がする。
「ほとんどの場合、そんな簡単に、ヤメられるわけないんだ。生活がかかっているからな。にもかかわらず、ナニが雇用の流動化だ。こんな外面(ソトヅラ)だけいい言葉、よくもまあ思い付いたものだと感心するよ、まったく」
雇用の流動化、か~。
「ボ~ッと聞いていると、なんとなくカッコよく聞こえるし、フレキシブルに自分の力を発揮できそうに思えてもきますよね」
「ほとんど、錯覚だけどな」
「少なくとも、結婚しよう、とか、家庭を、とか、子どもを、とか、という気持ちには、なりにくいかな~」
「なりにくいね。というか、ならんだろ、普通。給料は上がらんし、ナンやカンやと給料から差っ引かれるし、いつ首を切られるかもしれんし、両親のコトもあるし、自分の老後も心配だし、オマケに、愚かなる権力者たちによって、世界中がキナ臭くなりつつあるしな」
う、うわ~。
少なくとも、少なくとも。シモジモじゃないエライ人たちが、エラそうに、そのメリットばかりをイヤというほど宣っていたあの「働き方改革」は、実は「働かせ方改革」だったということだけは、ドコからドウ見ても、考えても、間違いなさそうだ。(つづく)