ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1014

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と四十五

「カルト ナ ゲンリシュギ パラダイス」

 難しいことは僕にはわからないけれど、と、ジャブ程度に前置きした上で、Aくん、「世の中、右も左もナニもカも、コレこそが正しい、どころか、コレ以外は正しくない、という具合に、無批判に妄信してしまいがち、みたいな、そんな、『カルトな原理主義パラダイス』化傾向であるがゆえに、トンでもなく不気味で物騒で危険なモノを感じて、感じて、仕方がないんだよな」、と。

 ん?、んん?、カ、カルトな、原理主義パラダイス、化、傾向?

 ん~。いつもながらのヤヤこしさながら、Aくんが、感じて仕方がないんだと宣うその不気味で物騒で危険なモノだけは、ソレなりにプンプンと漂ってはくる。

 「つまり、つまりだ。右も左もアッチもコッチも、己が己に対して批判的な目を向けられなくなったその時点で、もうソレは、『カルト』以外のナニモノでもないモノになってしまうかもしれない危険性を孕(ハラ)みまくってしまう、というわけだ」

 ん、ん~。やっぱりヤヤこしいな。

 信じるコトの危険性のように聞こえなくもないだけに、プチ仏教系の私としては、どうしても引っ掛かってしまうのである。

 「信じる者は救われない、ということですか」

 思い切って尋ねてみる。

 「信じる者は救われない?。いや、そうではない。信じる者は、きっと救われる。そう信じたい。しかし、しかしだ。信じ過ぎる者は救われないかもしれない、ということだ」

 信じ過ぎる?

 「信じ過ぎることが、心の中の排他的な魔物を目覚めさせてしまう」

 排他的な、魔物?

 「信じ過ぎることで、己が信じているモノが否定されるコトに耐えられない。それゆえ、信じているモノ以外は全て排斥する。場合によっては攻撃的に叩く。潰す。みたいなそういう感じだ。で、この感じ、ナゼかジワジワと肥大し始めてきているようなんだな。その辺りを引っ括(クル)めて、わかりやすく『カルトな原理主義パラダイス』化傾向、と、呼んでいるわけだ」

 申し訳ないけれど、わかりやすくはない。

 少し違うかもしれないが、ひょっとしたら先ほどの、無理やり外に敵を見つけては、手当たり次第に撃墜したがる、あの、パトリオットミサイルマンもまた、ソレ系の魔物、のように思えてくる。

 するとAくん、突然ナニかを思い出したのか、「あっ」とプチ叫んだあと、そのままソソクサと奥へと引っ込んでしまう。

 ん~。

 トにもカクにも、カルトな原理主義の、そういった思考のフットワークの悪さみたいなものだけは、やはり、いただけない。

 より、脳ミソはソフトに。より、ハートは温かく。より、思考はフットワーク軽やかに。で、なければ、より、良いモノなど、生まれてくるはずがないのである。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1013

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と四十四

「オトナシイ コクミンナンテ ダマシテオクニ カギル」

 以前、大人しい大人は都合がいいから、と、静かに、ユルリと、それでいて重く吐き捨てるように語ったAくん。こんなご時世ゆえ、その真意を今一度、無性に聞き直してみたくなる。

 「私は、未だに、『おとなしい』の漢字が、大人子どもの大人、の、『大人しい』であることに納得できないままでいます」

 「あ~。たしか国語のテストかナンかで、音が無い、『音無しい』と書いて、自分だけが❌だった、って、ボヤいていたよな」

 おっ。覚えていてくれたんだ。

 「そうです。ナゼ、大人は大人しいのか。大人しくなければならないのか。ソコのところが全くもって納得できないのです」

 するとAくん、「子どもから大人になるとはドウいうコトなのか。その定義付けが、おそらく、大人の事情、とか、致し方なし、とか、世の中キレイゴトでは済まない、とか、といったダークなモロモロを習得できたかどうか、納得できたかどうか、みたいなトコロにあるからなんだろうな」、と。

 ん~、たしかに。 

 時折、権力を意地でも握り続ける政界やら経済界やらの重鎮たちが、「若造が、子どもじみたコトをほざきよって」などと、エラそうに若者を揶揄するのを目にするにつけ、その度に、Aくんのその指摘と同じような思いを抱くことがある。

 「そうしたダークなモロモロを習得してしまった大人たちがつくり上げた世界がコレなわけだろ。こんな問題だらけの世界にしておいて、ナニが大人だ、ドコが大人だ、って、普通、思うよな」

 たしかに、普通の神経を持ち合わせていれば、普通、そう思う。

 「ようするに、子どもは子どもで、子どもなのだから子どもらしく黙っておけ。大人は大人で、大人なのだから、大人らしく大人しくしておけ。ということなのでしょうね」

 なんだか、そう言っているシリから気が滅入ってくる。 

 「そうだな、そういうことだ。そして、そうした大人しい大人やら子どもやらを適当に騙して騙して騙しまくって都合よく国づくり。つまり、大人しい国民なんて騙しておくに限る、という国家戦略なんだろ」

 ふ~。

 騙される方が悪い、と、宣う方もおられるかとは思うが、罪の深さからすれば、比較にならないほど、騙す方が圧倒的に悪い。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1012

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と四十三

カイジパトリオットミサイルマン!」

 「でもね、未だにパトリオットミサイルみたいな怪人たちは、漆黒の闇の中でその存在感を、不気味に、しかも、シッカリと、放ち続けているんだよな~」

 か、怪人、パトリオットミサイル、マン、・・・。

 想像しただけでもソラ恐ろしくなる。

 「どんな悲劇的な結末が待っていようと、そんなコトなどお構いなしに、ひたすら外に敵を見つけては撃墜したがる怪人たち。自ら手を下すことはしないが、またまた耳元で囁(ササヤ)くわけよ、唆(ソソノカ)すわけよ、『我が祖国のためにヤッチマエ~ヤッチマエ~』ってね」

 ん~。

 「そんなこんなの手口も含めて、コイツたち、結構、厄介なんだよな」

 た、たしかに厄介、厄介だと思う。

 なぜなら、パトリオットミサイルマンにはパトリオットミサイルマンなりの、ソレなりの「正義」ってヤツがあるはずだからである。正義は、時として視界を曇らせ、思考を硬直させる。硬直してしまった正義ほど厄介なモノはない。

 「怪人、パトリオットミサイルマン、恐るべし。ですね」

 「パトリオットミサイルマン、ね~。いいかもな、そのネーミング」

 褒められたわけではないのだろうけれど、なんだか嬉しくなる。

 「そういえば、たしか、『ミサイルマン・マミー』だったよな」

 ん?

 「久米みのる原作、一峰大二作画、の、ミサイルマン・マミー!」

 全くもってナンのコトやらサッパリわからない。

 「な、ナンなのですか、ソレ」

 「あれ?、知らないの?。1960年代であるにもかかわらず、様々な気象トラブルに着目して誕生した無敵の気象改造用ロボット、ミサイルマン・マミー」

 「全く存じ上げませんが、なんだかモノ凄いコンセプトの中で誕生したスーパーヒーローのようですね」

 「そう、そうなんだよな~。力付くで悪いヤツらをボコボコにやっつける、みたいな、そんなヒーローものが全盛であったあの頃、そうした気象やら自然やらには誰も着目なんかしなかった。にもかかわらず、突如、颯爽と誕生したミサイルマン・マミーは、幼き僕にとっても、妙に興味深いスペッシャルなヒーローの一人であったわけだ」

 なるほど。

 全く存じ上げないミサイルマン・マミーなれど、なんとなく、怪人パトリオットミサイルマンの真逆に鎮座するスーパーヒーローであるように思えてくる。

 「ただし」

 んん?

 「ただし、この話には、いかにもあの時代らしいオチがへばり付いている」

 あの時代らしい、オチ?

 「無敵の気象改造用ロボット、ミサイルマン・マミーの動力源。ソレが、当時、紛れもなく全人類にとっての夢のエネルギーであった、そう誰もが信じて疑わなかった、あの」

 あっ、あ~。

 「まさか、まさかの、あの、原子力、ですか」

 「ピンポ~ン。そう、あの原子力であったわけよ」

 原子力、か~。

 しかし、驚くことではないのかもしれない。この私でさえ、あの事故が起きるまでは、安心安全のクリーンエネルギーの最先端だと信じて疑わなかったわけだから。

 「原子力を動力源にして世界中の気象や自然のトラブルの解消のために日々奮闘する。なんだか、この社会の矛盾を象徴的に浮き彫りにしているように思えないかい」

 この社会の、矛盾を、か~。

 「つまり、社会の矛盾の上に成り立つ、正義。ということですね」

 「そう、そういうことだ。怪人パトリオットミサイルマンが、未だにその存在感をシッカリと放ち続けておれるのは、そうした社会の中の愚かなる矛盾が、消えそうで消えない、消そうとしても消せない、からなんだろうな、きっと」

 辛く、やるせなく、情けなく、なってくるほど、Aくんの、その指摘通りだと、ズシッと、ズシッと思えてくる。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1011

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と四十二

ナショナリズムパトリオティズム?」

 「そもそもナショナリズムとは、いったい・・・」

 ボソリとそう呟いたAくん。なんとなく、またまたヘビーな話題に突入しそうな気配。

 ナショナリズム、か~。

 手強そうな臭いが立ち上る。

 「愛国心。やっぱり、ナショナリズムと言えば、このイメージが強いよな」

 愛国心、か~。

 一層、手強そう臭いが、プスプスと立ち込める。

 「愛」も「国」も「心」も、そのドレもコレもがヘビー級なトリオであるだけに、いつだって、その臭いの中で、どうしても怯んでしまうのだ。

 「その愛国心というイメージから思い付く、もう一つのワード、パトリオティズム。聞いたことないかい」

 「パ、パトリオット?」

 「あ~、パトリオットミサイルね。ひょっとしたら、出どころは同じじゃないかな。物騒な響き漂うパトリオットミサイルパトリオットが語源かもしれないパトリオティズムね」

 パトリオットが語源かもしれないパトリオティズム、となると・・・。

 「ということは、とにかく、攻めてくるモノはナンでもカンでも撃墜しまくる、みたいな、そんな主義のコトですか」

 「自国を守るためなら撃墜しまくる、撃墜主義、ね~」

 またまた言わなきゃよ良かった、と、後悔する。

 「でも、ソレ、当たらずとも遠からず、結構、的を射ているかも」

 その言葉で、一気に、少し、ホッとする。

 「少なくとも、そう解釈しがちなピーポーたちが、かなり増えつつあるような気はする」

 つまり、本来は、そうではない。ということか。

 「気はするけれど、ナショナリズムパトリオティズムも、けっして撃墜主義ではない。言い換えるなら、撃墜は愛国ではない」

 撃墜は愛国ではない・・・。

 「では、ヤラレっぱなし、もまた『善』ということですか」

 「ヤラレっぱなしも、ヤリカエシっぱなしも、もちろんヤリっぱなしも、ドレも『善』じゃない、ということだ」

 うわっ。

 更に一層、手強く、難解に、なってきた。

 もうアトリエ内は、その手強すぎる臭いで充満してしまいそうだ。

 「愛国心。あくまでも僕が考える愛国心だけれど。この、この愛国心なるもの、ってのは、外に対するモノではなくて、内に対するモノ、『心』だと思うんだよな」

 内に対する心?

 「国を愛する『心』は、外に対して牙を剥(ム)くなどという愚かなる道を選ばない。なぜなら、その道は、自国への愛に繋がっていないからだ」

 国を愛する心、か~。

 たしかに、仮に、牙を剥く時があるとするなら、おそらく、ソレは、外に向けてではなく、自国が悪しき方向に舵を切り出した時であるような気がする。内に対して牙を剥く。コレこそが、本来の『愛国心』なのかもしれない。いや、きっとそうだ。そうに違いない。

 するとAくん、スッカリ呑むモノも食べるモノもなくなってしまったテーブルの上を簡単に片付けながら、彼なりのトドメを刺す。

 「こんな僕でも、コレだけは自信をもって言える。外に対して牙を剥く場合のほとんどは、愛国心などというモノではなく、歪んだ自己愛、ナルシシズムであり、姑息な保身だ」

(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1010

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と四十一

「ハンゲキノウリョクッテ ナンダ!?」

 反撃?

 反撃能力?

 こんな小国が、どうやって反撃する?

 こんな原発まみれなのに、どうやって守り切る?

 とりあえず、刺し違える?

 死なばモロとも?

 せめて、一矢(イッシ)を報いる?

 ・・・

 コレが、責任ある権力者たちの責任ある思考であり行動であるとは、到底思えない。

 繰り返し繰り返し頭を過(ヨギ)るこの疑問、あらためて、もう一度、心の中で問い掛けてみる。

 「反撃って、ナニ?。反撃能力って、ナンだ!?」

 きっと、あの人たちも、そんなモノでこの国が守れるなんて思ってはいない。バカじゃないのだから、そんなコトがわからないはずがない。にもかかわらず、ヤタラと「反撃だ~、反撃能力だ~」と喚(ワメ)く。ソレは、ナゼか。

 ナゼ、ナゼ、ナゼ。

 私の心の中で、いくらそう問い掛けてみたところで答えなど見出だせるわけもなく、ココで、ついに、Aくんに助け舟を求める。

 「国が宣う反撃能力って、ナンだと思いますか」

 さすがに少し面喰らった面持ちのAくんではあるが、すぐさま立て直して、こう返してくる。

 「もちろん、イロイロと考えられるとは思うが、そんな中で、最も好ましくないのが、支持者が喜ぶ、同盟国が喜ぶ、だな」

 ん?

 「つまり、声高らかに『反撃能力!』と宣えば宣うほど、喜ぶ人たちがいる」

 「喜ぶ、ですか」

 「そう、喜んでくれる。そのコトで、自分たちが、より安定する」

 「そ、そんなコトで、ですか」

 「そんなコトで、も、大いにあるということだ」

 Aくんが指摘するように、内も外もナニもカもを全てひっくるめて考えるのではなく、自分たちにとって都合がいい相手が喜ぶから、などという理由で、万が一にもコトが運ばれているとするなら、(何度も何度も頭を過ってきたトンでもなく重い思いではあるけれど)マジでこの国は、終わってしまうような気がする。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1009

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と四十

「ランボウナ セイロン ト テイネイナ ジャロン ト」

 ウダウダ系のダークな反体勢力の、あまりにも酷(ヒド)い言動の数々に、つい、おもわず、堪忍袋の緒が切れてキレてしまう。どの分野においても、こうしたメラメラ系の熱き戦士たちは、どうしてもキレがちなのである。そして、そうした真面目すぎるほど真面目な熱き戦士たちに限って、クソ真面目に、潔く、その責任を取って職を辞するのだ。

 なんという、悲劇。

 さらに、その悲劇は、理不尽に膨張する。つまり、イツだって、ドコだって、そのヤル気の無さがバレないように、上手い具合にケムに巻きつつカモフラージュさせながら、ウダウダと、ウダウダと、真っ当な社会のために必要なモノ、コトを、手当たり次第に阻止しようと企む姑息な似非(エセ)戦士たちは、そう簡単には責任など取らないし、自ら職を辞することもしないのである。

 な、なんという、さらなる悲劇。

 「仮に、仮にですよ。この世に、乱暴な正論と丁寧な邪論があったとしたら、いったい、ドチラが正しいのでしょう」

 そう、Aくんに問うてみる。

 少し長めに、「ウ~ン」と唸ったあとAくんは、ユルリと、こう、答える。

 「そりゃ前者だろ」

 やはり。

 「と、言いたいところだが」

 えっ!?

 「この世には、イロイロな考え方があっていいわけだから、その論が『正』であるとか『邪』であるとかのその前に、その人間の立ち振舞いが問われる、かもしれないな」

 なんと。

 意外である。もちろん、ヤニワには納得などできそうにない。それゆえ、プチ反旗を翻してみる。

 「怒りは、ソレが正しくとも悪である。というコトですか」

 するとAくん、微かに目を細めて、こう返してくる。

 「怒りは悪ではない。場合によっては大きなパワーさえも生む。しかし、その表し方を誤れば、逆に大きな代償を払うコトにもなり得(ウ)る、ということだ」

 怒りの表し方、か~。

 「でも、おそらく、いや、絶対、私は、そんな、歪みまくった邪論を丁寧に巧みに操る人間なんて、好きになれないと思います。というか、大っ嫌いです」

 するとAくん、今度は、その目を3割増しほどに大きく見開いて、こう、トドメを刺す。

 「そりゃそうだ。そりゃ、そうだよな。もう、もう、ソイツらの肩をもつのは止(ヤ)めた。そんな慇懃(インギン)無礼でウソ臭いヤツ、ドコもカシコもスミからスミまで、ごしゃっぱらやげる!、だぜ~、まったく」

 あ~。

 たしかに、たしかに、ごしゃっぱらやげる!、である。

(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1008

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と三十九

「ゴシャッパラヤゲル! ゴシャッパラヤゲル?」

 方言。

 言語文化の世界における、その多様性の象徴として、燦然と光輝いている。

 標準語。

 利便性を追求したコミュニティツールの象徴として、ソレなりに輝いてはいる。しかしながら、方言自体がもつ「文化パワー」には、到底敵(カナ)わない。

 そう、文化パワー。

 文化を伝えるための一つのツールとしての言語なのではなくて、それぞれの地方の人々が、風土が、歴史が、育んできた言語、コトバ。ソレ自体が、文化の塊(カタマリ)なのである。ソレを、ソレがもつパワーを、私は「文化パワー」と呼んでいる。

 そんな数多ある方言の中で、とくに東北地方の「ゴシ、ゴシャ系」群の中で、私が最も「凄いな」と思ったコトバを、Aくんにクイズっぽく問い掛けてみる。

 「私が、旅の途中で、たまたま耳にした『ごしゃっぱらやげる』というコトバ、どういう意味なのか、ご存じですか」

 「ご、ごしゃ、ごしゃっぱらやげる~!?」

 「そうです、ごしゃっぱらやげる」

 「ドコかの方言なんだろうけど。ごしゃっ、はらやげる。ごっしゃはらがへる。ごっつう腹が減る。お、おお。コレだな。メチャクチャお腹が空いた。ほら、『朝からナニも食べてないから、ごしゃっぱらやげた~』みたいな。どうだい、ドンピシャだろ」

 うわっ。モノ凄い推理力。

 おもわず、正解かと思ってしまったほどである。しかし、考えようによっては、当たらずと雖(イエド)も遠からず、かもしれない。

 「申し訳ありませんが、正解は、腹が立つ。頭にくる。ムカつく。なのですが、ひょっとしたら、その由来は、メチャクチャお腹が空いた~、なのかもしれませんね」

 「もしそうなら、僕の推理力も、満更、捨てたものじゃない、ということになるのだろうけれど。残念だけど、ま、違うな。悔しいけど違うと思う」

 ドコで、ナニがあって、ドノようにして、ドウ育まれていったのか、カタチづくられていったのか。そんなナゾめいたところがまた、イイのだろうな、きっと。

 ごしゃっぱらやげる。

 ごしゃっぱらやげる!

 ナンにしても、とにかく、やっぱり興味深い。

 味も素毛もない単なる「腹が立つ」に、土着のパワーがネチッこく纏(マト)わり付いたような、そんな地方文化の「凄み」みたいなモノが感じられて、実に気持ちがいいのだ。(つづく)