ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.415

はしご酒(4軒目) その百と六十六

「キ ハ ヤッパリ キ ダナ」②

 そんな「気」なのだけれど、この漢字そのものは、なかなか好きになれないままでいた。エナジーを感じないのだ。

 そんな折も折、目にしたのが、あの看板である。

 「気」は、やっぱり「氣」だな。

 コレに関しては、どうしても共感してもらいたくて、私の「氣」への拘(コダワ)り、「氣愛」について、Aくんに熱く語ってみる。

 すると、ほぼ即答で、「〆(シメ)と米(コメ)とじゃ、音は似ていても大違い、ハナから勝負にもならんだろ。まずは腹一杯、米を食ってから、というのは、昔も今も関係なく、時空を越えた真理だ」、とAくん。着眼点に、若干の違和感はあるものの、その言葉が妙に嬉しくて、おもわず、強引に握手をしてしまう。

 私の、力ずくの握手を早々に切り上げたAくんは、「それにしても、なぜ、〆の気、に、なってしまったのか。〆だよ、〆、その〆にナンの意味があるというのだろう。どうせ、つまらない大人の事情ってヤツなんだろうな、きっと」、と、もうすっかり、「氣」派の重鎮のような佇まいを放ち始めているものだから、さらに嬉しくなってくる。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.414

はしご酒(4軒目) その百と六十五

「キ ハ ヤッパリ キ ダナ」①

 我が家から4㎞圏内のいつもの散歩コースには、なぜか、断食道場やらハーブの生産直売店やらがあったりする。どちらも前を素通りするだけで、お邪魔したことはない。実際は、そんなことはないのだろうけれど、なんとなく怪しく見えて、どうも近寄りがたい。

 そんな散歩コースのそのあたりに、同じように怪しく見える古い看板が何枚かぶら下がっている。そのうちの一枚に、「氣」という漢字が一文字、大きく筆書きされたホーロー製の、かなり錆び付いた看板があるのだけれど、その真っ黒でワイルドな「氣」という文字のことが、なんとなく気になっている。

 私は、人というもののその中心にあるべきものが、「気」だと思っているし、その「気」が、充満していてこその人である、とも、思っている。

 そんな、人の「気」が、ナニかの弾みで、大規模に、集団的に、萎み始めたその途端に、たとえば、あまり好きでも得意でもない分野である、あの巨大な「経済」というもの、にさえも、大いなる影響を与えて、いとも簡単に、一気に萎ませてしまう。図体ばかりが肥大化した「経済」という怪物も、実は、小さき人のその「気」というものに、大きく左右される小心者、なのかもしれない、ということを、私たちは、安易に忘れるべきではない。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.413

はしご酒(4軒目) その百と六十四

「ヨウカイ イロガツクツクボウシ ノ キョウフ」⑤

 「そんなに気落ちしなさんな」

 「気落ちもナニも、ようするに、つまり、言う側も言われる側も、どちら側も、議論ベタ、ゆえに、ナンともカンとも・・・なんですよね」

 「ま、そうなんだけどね」

 どちら側も議論ベタであるからこそ、この国の古(イニシエ)からの美徳である致し方なしの苦肉の策、言わぬが花、沈黙は金、は、賛辞を贈られることはあっても、批判される筋合いはない、ということなのであろう。

 悲しい結論ではあるけれど、冷静になって考えれば、それもまた一つの正道(ショウドウ)と思えなくもない。

 

 

 「だからこそ、教育なんだと、思っている」

 「えっ」

 自分なりに無理やり結論づけ、終止符を打ちかけていただけに、またまた、おもわず「えっ」と声を上げてしまう。

 「若いときから議論に慣れ親しむことが大事だ。そのためにも授業の中に、ディスカッション、というよりは、この場合は、ディベート(debate )かな、ソイツを工夫して入れ込む。ケンカでもない、非難でも誹謗中傷でもない、より真理に近づくがための議論、もっともっと身近なものにしていかないとな」

 遅れ馳せながらのAくんの、光り輝くカウンターパンチが、気持ち良すぎるぐらい腑に落ちるし、腑に沁みる。

 もし、ジワリジワリと、より多くの若者たちが、そうした授業を通して、議論とはナニか、その内なるモノを掴みとるコトができたとしたら、少なくとも、おそらく、ネット上などで、名を名乗ることなく特定の人間を名指しで非難しまくる、というような特異な行為は、自ずと、ジワリジワリと、影を潜めていくような気がする。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.412

はしご酒(4軒目) その百と六十三

「ヨウカイ イロガツクツクボウシ ノ キョウフ」④

 頭の中が整理しきれない。へばりつくものがアレやコレやとありすぎるし、その一つひとつにかかる靄(モヤ)も晴れそうにない。

 「仮に、その妖怪もまた、私の愛は、身勝手ではない正真正銘のホンモノの愛なんだ、と、そう信じて疑わない、としたら、どうしますか」

 コレこそが、この問題の核心を突いている、という気がしてならない私は、Aくんの、光り輝くカウンターパンチを、目一杯期待しながら静かに待つことにする。

  

 

 「じゃ、そうなんだろ、それでいいじゃないか」

 「えっ」

 期待が大きかっただけに、プチ静寂に終わりを告げるAくんの、投げ槍とも取れるその言葉に、おもわず「えっ」と声を上げてしまう。と同時に、その言葉の意味を探ろうと、私の頭の中の中古のコンピューターはフル稼働する。もちろん、アッサリと徒労に終わる。

 「信念をもって正しいと思うことを、黙っておけ、とは言えんだろ」、とAくん。

 「それはそうですが」、と私。

 「ソコで初めて議論のゴングが鳴らされる、カーン、とね。ただし、そのゴングのあとがな~、ナンともカ~ンとも・・・」

 結局、グルリと回って元の位置、ブーメランのように「議論ベタ」にまで戻ってくるということなのか、などと、思ったりしているうちに、なんとなく力が抜けてしまう。(つづく)

 

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.411

はしご酒(4軒目) その百と六十二

「ヨウカイ イロガツクツクボウシ ノ キョウフ」③

 それでも気持ちを切り替えて、未消化のうちの一つについて問うてみる。

 「いったいナニが、ソコにへばりついているんですか」

 するとAくんは、少し黙考したあと、ユルリと語り始める。

 「少し目先を変えてみよう。色がつく。色がつく、ということを、人一倍恐れる業界がある。とくに、夢を売る業界。たとえば、芸能関係あたりが、このことに、ことのほか神経質なような気がする。なぜ、色がつく、ということに、そこまで神経質になるのか。ソコにもまた、この国が抱える深い闇があるのでは、と、僕は思っている」、とAくん。

 「色がつく、ことに、ですか」

 「そう。色がつくことのリスクだな」

 想定外の目先の変更に、少し戸惑う。リスクになりうるその「色」とは、はたしていったいナンなのか、そのコトも含めて、そのあたり一帯が、ナゾに包まれ始める。

 「役者であれ歌手であれ、思想的に無色であることが無難、だということなのだろうな、おそらく」

 余計なことなど考えなくていい、ましてや、巨大なものに対して、批判めいた発言をすることなど以ての外(モッテノホカ)、と、かなりの上から目線で、彼らに、彼女らに、色がつくことを防止しようと躍起になる妖怪「イロガツクツクボウシ」。ソコから漂う怪しげな恐怖のその要因は、やはり、ソコには、身勝手ではない正真正銘の愛が、ない、ということだと思う、というAくんの、その実にAくんらしい補足を、「なるほど~」などと思いつつ聞いているその尻から、またまた新たな疑問が、放屁のように、プッと飛び出してきたりするものだから、この世はホントにヤヤこしい。(つづく)

 

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.410

はしご酒(4軒目) その百と六十一

「ヨウカイ イロガツクツクボウシ ノ キョウフ」②

 「たしかに、いろいろなものが、へばりついている、という気も、しなくはないか」

 えっ?

 「普通、わかるだろ」という言葉あたりが、間違いなく返ってくるものと思い込んでいただけに、肩透かしを喰らった感じではある。

 「へばりついている、ですか」

 「そう。そうでなきゃ、これほど、そこかしこで、バッシングやらクレームやらの嵐が、吹き荒れたりはしないだろ」

 コトはそれほど単純ではない、ということなのだろう、か。

 「ソコに差別の臭いさえする」、と、付け加えるようにAくん。

 人は、ほんの少しの油断で、ズルズルと、排他的で利己的で高圧的な世界に身を投じてしまう、という危険性を秘めている、と、かねてからAくんは、警鐘を鳴らし続けている。そのことに、私も異論はない。とくに、自分というものを表に出すことなど、そうそうない、普段は、なんとなく温厚そうに見える、そんなこの国のピーポーたちに、漠然とながら、その危険性を感じていたりもする。

 「だからこそ、沈黙という美徳が、致し方なしの苦肉の策であった、というその考え方に、頷(ウナズ)けなくもないか、な」、と、無理くりの私のツッコミに共感してもらえた、にもかかわらず、ナゼか、全く満足感は湧いてこない。それどころか、ちょっとした悲しさまでも覚えてしまう。

 ひょっとすると、そもそも共感など、Aくんに求めていなかったのかもしれない。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.409

はしご酒(4軒目) その百と六十

「ヨウカイ イロガツクツクボウシ ノ キョウフ」①

 島国であるこの国(に限ったことではないのかもしれないけれど)に、古くからまかり通る、言わぬが花、沈黙は金(キン)、という摩訶不思議な美徳について、もう少し深く考えてみたくなる。

 この小さな島国特有の、コミュニティの高すぎる密度ゆえに、ヤミクモに、ナンでもカンでもベラベラと喋ったりしていると、ソコにピキピキと亀裂が入ったり、ソコからプスプスと悪臭がしてきたり、することで、コミュニティそのものが崩壊する危険性がある、ということからの、言わぬが花、であり、沈黙は金、ということであったのだろうか。もちろん、その美徳は、現代まで脈々と受け継がれている。

 当然の如くAくんは、「それはダメだろう」、と、一刀両断である。そしてさらに、「どこからどう見ても、どこをどう考えても、それは正しくない、おかしい、と、いうとき、ましてや、ソコから致命的な悪臭が放たれ出しているそのとき、に、言わぬが花、沈黙は金、などと、呑気に言ってはいられないだろう」、と、少々語気を荒げる。

 「でも、ホントに正しくないのか、おかしいのか、ましてや、ソコから放たれ出している臭いが、致命的な悪臭なのかどうかなんてことは、そう簡単に、わかることじゃないでしょ」、と、まだ攻め込める余地が、辛うじて残されているその隙間に、思い切ってツッコミを入れてみる。

 「そう簡単に、わかることじゃないでしょ、ね~、そうくるか~、ほ~お、ほ~ほ~ほ~ほ~ほ~」、と、なんとなく不気味にほくそ笑むAくんに、おもわず身構える私。(つづく)