ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1223

はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と五十四

「ジシュトウヒョウ?」

 以前から気になって仕方がない数あるワードの中の一つに、「自主投票」がある。

 そう、自主、投票。

 時折、政党の、組織の、おエライ方々が、「今回は自主投票で」などとエラそうに宣ったりするものだから、その度に、心の襞(ヒダ)が妙にザワザワと落ち着かなくなる。

 自主ではない投票、って、いったい、ナンなのだ。

 そもそも、投票なんてものは「自主」なのではないのか。誰かに、頼まれて、命じられて、投じるようなものが投票のあるべき真っ当な姿だとは、到底、思えない。

 大体からして、その「自主」という漢字二文字自体、どうもシックリとこない。むしろ、ココは、ナニよりも大切なのは「己」なのだという思いを込めて、「主体」の方が、圧倒的にいい。

 そう、主体、投票。

 候補者の為人(ヒトトナリ)を知る。

 候補者の考えを知る。

 この人なら、と、その人に、清き一票を投じる。

 この人なら、と、思えないので、どの人にも、投票しない。

 その意思を示すために、白票を投じる。

 あるいは、「ちゃんとしろよ!」とだけ書いて、投じる。

 ナニがナンでもナニもカも、主体である己自身で、深く、考えて、行動する。深く、考えて、行動できる。コトこそが、やはり、心底、真っ当な、「投票」の有り様(ヨウ)だと、私は思う。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1222

はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と五十三

「コウキンチュ~チュ~?」

 全くもってその意味を、誤って理解してしまっていた。

 ソレがコレ、「公金チューチュー」。

 そう、公金、チューチュー。

 その公金チューチューを、私は、いわゆる「中抜き」、「水増し」、「談合」、などといった悪どい手口を使い倒して血税をチョロまかす、みたいな、そんな類(タグ)いのモノだと思い込んでいたのである。

 ところが、実際は、この公金チューチュー、圧倒的な弱者たちをターゲットにしたダークなバッシング以外のナニモノでもなかったのだ。ソレまで、結構、コトあるごとに、勘違いしたままこの言葉を使っていたものだから、さすがに愕然としたことを今でもハッキリと覚えている。

 端的に言えば、「福祉切り捨て」、「公助切り捨て」。つまり、「弱者切り捨て」だということだ。

 そう、弱者の、切り捨て。

 様々な理由によって自助だけでは、どうしても、生きていけなくなってしまった社会的弱者たちは、皆、「公金チュ~チュ~だ~!」などと断罪する、切って捨てる、とくに、その公金とやらで生計を立てておられる公務員(もちろん、地方議員も国会議員も)の一部の方々のその意識の、考えの、稚拙さ、短絡さ、歪み具合、には、憤りを通り越して悲しくさえなる。

 そういえば、ある落語家さんが、「『裏金ガブ~ガブ~』たちがエラそうに、ナニが『公金チュ~チュ~』だ」、みたいなコトを、呆れ果てるように宣っておられた。

 おっしゃる通り。

 見事なまでに遵法精神が欠落した裏金ガブガブな公務員たちのその罪の深さ、まさに、日本海溝クラス。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1221

はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と五十二

「サツタバ モッテ アルカナクテイイヨウニ デジタルカ?」

 大手企業にベッタリ?

 優遇?

 癒着?

 政治献金

 天下り

 中抜き?

 血税喰い虫?

 オマケに、某大国にもベッタリ?

 そして、ナゼか、ヤタラと、「極左極左」と反対分子潰しに、躍起?

 いやはや、そんなこんなで政治は腐敗。経済は弱体化。もちろん、円も急降下。一見、好調に見えていた株価も怪しい怪しい。

 こんなコトでは、近いうちに、大袈裟かもしれないが、「ラーメン一杯、一万円」などということも充分にあり得る。

 ん!?

 ひょっとすると、政府が妙に推し進めるデジタル化なんてものも、トンでもなく大量のお金を、札束を、持って、近所のスーパーに買い物に行かなくてもいいように、歩き回らなくてもいいように、ケータイでチャチャッとお手軽に。と、いうような、その程度のレベルのことなのかもしれないな、などと、どうしても、勘繰ってみたくなってしまう。

 札束持って歩かなくてもいいようにデジタル化。

 んなアホな。

 と、思いたいところだが、あの人たちは、マジでワケがわからないトコロがあり過ぎるゆえ、全くもって的外れ、とも、言えないように思えてならないのである。(つづく)

 

 

 

 

追記

 大いなる権力を握る者たちによる大いなる愚行、を、この星のそこかしこで、イヤになるほど、悲しくなるほど、目にする。

 中東も然り。 

 緊張が走る。

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1220

はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と五十一

「ガ ガイライシュ!?」

 いつだったか。

 急ぎの用事があって、大慌てで玄関を飛び出したその時だ。

 ん?

 なんだ?

 足元に、あるイタリアの高級ブランドのような色合いの虫が一匹。

 黒いボディに赤い首巻き。美しい。

 と、細(ササ)やかなる感動に浸っていたら、後日、その美しい虫がトンでもなく厄介な外来種であったことをニュースで知る。

 が、外来種!?

 外来種

 よそ者。

 侵略者。

 圧倒的強者。

 ソレらが私が抱いている外来種に対するイメージであるだけに、余計、驚いてしまう。

 とくに、ソイツは、というか、ソイツの幼虫は、サクラの、ソメイヨシノの、その木の樹液が大好物だというから、更に、マジ、厄介なのである。

 いつの日か、「おじいちゃんが若かった頃、この川の土手にはな~、何百本ものサクラの木が植わっていて、春になれば満開に咲き誇っていたものじゃ~」などと孫に曾(ヒ)孫に思い出話を語ってやらなければならない時がやって来るかもしれない。

 外来種、恐るべし。

 ただし、この外来種のイメージを、そのまま、「人間」に当てはめてしまおうとすることには賛同しかねる。と、いうか、ソレ、全くもっていただけない。

 たとえば、ヤタラと「グローバルだ、グローバルだ」とエラそうに宣うわりには、未だに、差別やら偏見やら蔑(サゲス)みやらにドップリと浸かり切ったものの考え方から抜け出せないでいるピーポーたちを、時折、見掛けたりするものだから、心底、情けなくなる。

 コレもまた、いわゆる、島国根性というヤツなのか。

 自分たちにとってのみ都合のいい「グローバル」なんてものは、けっして、グローバルでもナンでもないんだ、と、いうコトを、もうそろそろ、いい加減、気付かなければならない。

 もちろん、この国に限ったことではないと思う。ドコもカシコも自国ファーストの花盛りだ。しかし、ソレでも、やっぱり、気付かなければならないのである。

 にもかかわらず、そんなコトさえも気付けない、気付こうともしないのなら、もう、未来永劫(エイゴウ)、鎖国でもしていた方が、この星のためにも、この星のピーポーたちのためにも、ウンといい。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1219

はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と五十

「オスミツキ ギフト ドク」

 ナンとしてでもナンらかのお墨付きを手に入れて、ソレを盾に取って窮地を乗り切る。と、いう手法は、強大な権力を握るおエライ人たちの姑息な常套手段である。

 そう、三権分立、ならぬ、三権合体、三権集中。さすがに、その三位一体の手強さは凄まじく、全くもって侮(アナド)れない。

 たとえば、圧倒的な権力側に擦り寄りまくった最高裁の判決。コイツも、トップレベルのお墨付きと言えるだろう。最高裁での、まさか、としか思えないような一般ピーポーたちの大逆転敗訴を、私たちは、幾度となくこの目で見てきている。そして、あの人たちは、ソレを盾に取って、俄に勢い付く。

 そんな中、また一つ、天下無敵のお墨付き。ソレが、検察捜査。検察による忖度まみれのユルユルのジャッジメントが、あの人たちへの最高のgift(ギフト)となってしまった。

 そう、最高の、gift 。

 ただし、この「贈り物」という意味の「gift 」、なんと、ドイツでは、ほぼ「毒」という意味で使われているという。

 コレ、実に興味深い。

 ドコからドウ見ても考えても「グル」としか思えないダークな三位一体、悪だくみの一味たち。に、よる、「お墨付き」というgift 。この国のピーポーたちにとっても、この国の未来にとっても、充分に「毒」、どころか、「猛毒」そのものだと、強烈に思う。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1218

はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と四十九

「ワタシガ セイジテキセキニンヲ トルベキデアルト」

 公の場で、本人にとっても組織にとっても都合が悪い真実を語ることを拒み、虚偽と隠蔽に終始し続けた、ある、責任あるポジションにいた政治家が、「私が政治的責任を取るべきであると考え」、と、所属する組織から離れることを決意する。

 町や村であれば、まだ、無所属で選挙に臨むことも充分に可能かと思われるが、国レベルとなると、さすがにそうもいかない。そういう意味では、その決意、それなりに重いモノのように思えなくもない。だが、しかし、申し訳ないが、私には、ソレが、「政治的責任を取る」コトに繋がる決意であるとは、到底、思えないのである。

 政治家が、政治的責任を取る、とは、いったい、ナンなのか。そして、彼は、本当に、その決意を政治的責任を取る決意だと思っているのか。ソコのところを、もし、親友であるなら、「ココだけの話、ぶっちゃけ、マジ、どうなのよ」、と、聞いてみたいところだけれど、当然のごとく、親友でもナンでもないのでソレは叶わない。

 ココに、そんな彼の心の内側を、端的に、見事なまでに言い表しているように思える、一つの四文字熟語がある。

 ソレが、コレ、敵前逃亡。

 そう、敵、前、逃、亡。

 真実を語れる状態であるにもかかわらず、語らずに逃亡する。この行為は重大な義務違反であると同時に、情けなくなるほどトンでもない裏切りであり、信用失墜行為でもある。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1217

はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と四十八

「ミンシュシュギ ト キョウイク ト ケンリョク ト ワンカラー ト」

 この国の、権力を握るシモジモじゃないエライ方々が宣う民主主義は、かなり歪(イビツ)だ。

 たとえば、教育。教育の現場。

 教育の本質を履き違えたような授業が我が物顔に展開されているのなら、百歩、いや千歩、万歩、譲って、致し方ないのかもしれないが、枝葉としか思えないようなコトを殊更(コトサラ)大きく取り上げて、「学習指導要領を疎(オロソ)かにしている。けしから~ん」では、やはり、国家権力による教育の現場への介入、管理化、ワンカラー化、と、言わざるを得ない。

 民主主義。

 教育。

 権力。

 ワンカラー。

 三つ巴、ならぬ、四つ巴に、グチュグチュと絡みまくって、現場が、ガチガチに萎縮していくこの感じ、全くもっていただけない。

 ナゼ、こんなコトになってしまうのか。

 ナゼ、現場の真っ当なニーズに応えた独自性が認められないのか。

 ナゼ、そういった独自性を、あの人たちは嫌うのか。

 まさに、ナゾがナゾ呼ぶナゾナゾワールド。そう易々とは、そのナゾ、解けそうにない。

 そもそも、権力などというモノは、社会の、国の、世界の、その情勢によって、なんとでも揺れ動きがちなのだ。しかも、その揺れ動き、必ずしも正しいとは限らない。トンでもない方向へ舵を切ることだって大いにある。だから、だからこそ、教育の、教育の現場の、真っ当な独自性が保障されなければならないのに、いかんせん、権力は、権力者たちは、いつだって、介入にご執心なのである。

 そして、その介入は、現場にとって最も致命的な「萎縮」を生み、蔓延(ハビコ)らす。

 言わずもがな、萎縮した教育に、教育の現場に、明るい未来などあろうはずがない。(つづく)

 

 

 

 

追記

 国によって、強引に、ある教育大学の附属の小学校の先生たちが全て入れ替えられる、という、ニュースを耳にする。その真相を丸ごと知ることはできないが、しかしながら、ソコから漂ってくる恐ろしいまでの胡散(ウサン)臭さには、捨て置くわけにはいかないタダならぬモノがある。