はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と四十八
「ミンシュシュギ ト キョウイク ト ケンリョク ト ワンカラー ト」
この国の、権力を握るシモジモじゃないエライ方々が宣う民主主義は、かなり歪(イビツ)だ。
たとえば、教育。教育の現場。
教育の本質を履き違えたような授業が我が物顔に展開されているのなら、百歩、いや千歩、万歩、譲って、致し方ないのかもしれないが、枝葉としか思えないようなコトを殊更(コトサラ)大きく取り上げて、「学習指導要領を疎(オロソ)かにしている。けしから~ん」では、やはり、国家権力による教育の現場への介入、管理化、ワンカラー化、と、言わざるを得ない。
民主主義。
教育。
権力。
ワンカラー。
三つ巴、ならぬ、四つ巴に、グチュグチュと絡みまくって、現場が、ガチガチに萎縮していくこの感じ、全くもっていただけない。
ナゼ、こんなコトになってしまうのか。
ナゼ、現場の真っ当なニーズに応えた独自性が認められないのか。
ナゼ、そういった独自性を、あの人たちは嫌うのか。
まさに、ナゾがナゾ呼ぶナゾナゾワールド。そう易々とは、そのナゾ、解けそうにない。
そもそも、権力などというモノは、社会の、国の、世界の、その情勢によって、なんとでも揺れ動きがちなのだ。しかも、その揺れ動き、必ずしも正しいとは限らない。トンでもない方向へ舵を切ることだって大いにある。だから、だからこそ、教育の、教育の現場の、真っ当な独自性が保障されなければならないのに、いかんせん、権力は、権力者たちは、いつだって、介入にご執心なのである。
そして、その介入は、現場にとって最も致命的な「萎縮」を生み、蔓延(ハビコ)らす。
言わずもがな、萎縮した教育に、教育の現場に、明るい未来などあろうはずがない。(つづく)
追記
国によって、強引に、ある教育大学の附属の小学校の先生たちが全て入れ替えられる、という、ニュースを耳にする。その真相を丸ごと知ることはできないが、しかしながら、ソコから漂ってくる恐ろしいまでの胡散(ウサン)臭さには、捨て置くわけにはいかないタダならぬモノがある。