ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.857

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と八十八

「ヨウカイ ノラリンクラリン」

 学校の先生をさせてもらっている時にも、時折、感じたことなのだけれど、シモジモである善良な一般ピーポーたちによる指摘やら要望やら糾弾やらを、真っ向からドンと受け止めるのではなく、いかにして、酔拳のように、煙(ケム)に巻くように、上手い具合にノラリクラリと受け流せるか、の、その技が、どれだけ秀(ヒイ)でているか、で、シモジモじゃないエライ方々のその評価が決まったりする、みたいなことがあるんだよな~、と、一気に語りまくり倒したAくん。

 酔拳のように、煙に巻くように、ノラリクラリと、か~。

 そんなAくんの「ノラリクラリ」論に耳を傾けているうちに、なんとなく、学校の先生は学校の先生で、それなりにイロイロと辛いコトがあったりするのだろうな。とくに、Aくんみたいなタイプの先生は、そうなのだろうな。などと思ったりする。

 「人知れず近付いてきて、耳元で囁(ササヤ)くわけよ」

 ん?

 「まともに聞いちゃ~ダメだよ~。いちいちまともに受け止めていたら、そうした声と、上の人たちとの狭間で板挟みになっちゃって、ニッチもサッチもいかなくなるよ~。ヘタしたら、もうソコにいられなくなるよ~。ダイヘンだよ~」

 んん?

 「もっと、もっと、ノラリンクラリン、ノラリンクラリン、うまくヤレよ~、うまくヤレよ~、と」

 んんん?

 「聞こえてくるわけよ。よ~よ~よ~よ~と妖怪ノラリンクラリンの甘い囁きが」

 な、なんという妖怪だ。

 その甘さも、きっと、和三盆のような上質の甘さなのではなく、サッカリンやチクロのような安心できない怪しげな甘さなのだろう。

 そういえば、国会の答弁などでも、やたらと、ひたすら「読む人」を目にする。アレも、ひょっとすると、その耳元で、その妖怪が囁いているのかもしれない。

 「もっと、もっと、ノラリンクラリン、ノラリンクラリン、読んどけよ~、読んどけよ~」、と。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.856

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と八十七

「キノツクエ ノ メダカノガッコウ」

 ♪め~だ~か~のがっこ~は~

  かっわっの~なか~

  そ~っとのぞいてみてごらん

  そ~っとのぞいてみてごらん

  みんなでおゆうぎ

  しているよ~

 「はい!?」

 ナニを思ったのか、Aくん、またまた唐突に歌い出したものだから、またまたザワザワと動揺してしまう。

 「めだかの学校、知らない?」

 「も、もちろん、知ってはいますけど」

 「なんかいいんだよな~、のどかで」

 のどかで、か~。

 「つまりだ、つまるところ大切なのは、やっぱり、環境だ、ってコトだよな」

 「か、環境、ですか」

 「そう、環境。慌(アワ)てない、慌てない、ユルやかな川の流れ。キレイな水。それでいて豊富な栄養分。充分な酸素。そして、優しい先生。愉快な仲間。楽しい授業。ほら、ソコに、学校の理想形があるような気がしないかい」

 そう言われると、たしかに、そんな気がしてくる。

 「教育関連のエライさんたちも、ウダウダと、ゴチャゴチャと、難しいコトばかり言わないで、シンプルに、『めざせ、めだかの学校!』と、宣言すればいいんだよな」

 ホントだ。

 意味、不明の「道徳」やら、目的、不明の「株式投資ゲーム」やら、そして、世界の平和に繋がるような真っ当な正義、不明の「愛国心教育」やらから、もういい加減、足を洗ってもいいのではないか、と、マジに思ったりする。

 「そんな、『めだかの学校』の可能性を感じさせてくれる学校が、ある地方の山の中に、ある、らしい」

 「山の中に、ですか」

 「そう、らしい。めだかの学校が、やっまっの~なか~、に、というわけだ」

 「ほ~、なんとなく期待してしまいますよね」

 「そう、その通り、期待してしまう。たとえば、地場産業である林業やら木工やらとのコラボ、『マイデスク』づくり」

 「マイデスク、づくり、ですか」

 「組み立てキットになっているオール地元の木製の机を、まず、自分で製作するコトから、長きに渡る学校生活の、その第一歩がスタートする」

 「いいじゃないですか、それ」

 「正真正銘の自分の机、マイデスクなわけだ」

 「卒業したら?」

 「もちろん、もち帰る!」

 「もちろん、もち帰る?」

 「マイデスクが、そのまま卒業記念品となるわけだ」

 「いい、いいです、それ、ホントにいい」

 「校舎にも地元の木材がフンダンに使われている、理想的な小中一貫校みたいなんだな」

 お金も夢も理想も注ぎ込まれないまま、の、とりあえずの校舎づくり、学校づくり、が、ほとんどなだけに、なんだか私まで嬉しくなってくる。

 するとAくん、そんな私に、あたかも冷や水を浴びせるかのように、「でもね、言ってくるわけよ。たいていは、上の方から、ウダウダと、ゴチャゴチャと」、と。

 なんと~。

 ホンワカと、温まりつつあった私の身体は、無慈悲にも、一気に冷やされてしまったような気がした。

 だが、だがしかし、それでもやっぱりココは、現場の先生方に期待しよう。そして、目一杯、心からエールを送ることにしよう。

 山の中の、めだかの学校。 

 木の机の、めだかの学校。

 私一人が、人知れず応援したところでナンの足しにもならないだろうけれど、新しい学校のあるべき姿を、その「めだかの学校」が、ひょっとしたら、私たちに、見せてくれるかもしれないから。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.855

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と八十六

「チンモクハ トキトシテ ウラギリニナル フタタビ! フタタビ?」

 「あっ!」

 「えっ!」

 突然、私が、あまりにも大きな声で叫んでしまったものだから、ソレにつられて、おもわずAくんも。

 そんな、「あっ!」から「えっ!」への電光石火な時間差攻撃のあと、再び浮上する、あの、キング牧師の名言。

 「沈黙は、時として裏切りになる場合がある」

 「え、えっ?」

 「いくつか言っておられた中で、間違いなく3本の指に入る、あの、キング牧師の名言です」

 「あ、あ~」

 「見ざる言わざる聞かざる、せざる、の、その靄(モヤ)が晴れかけたかな、と、思った途端に、再び、頭の中の脳みその沼からプクッっと浮き上がってきた、彼のハイパワー名言」

 「ほ、ほ~」

 「私ごときでは手も足も出ないほどのその圧力に、つい、不本意ながらも尻込みまでしてしまいそうになるのですが、それでも、こんな小さき私を勇気づけ、鼓舞してくれる、ことが、あるのです」

 フムフムと何度か小さく頷いたあと、Aくん、「沈黙は、時として裏切りになる場合がある、ね~。自分自身の考えにソコまで自信がもてない、ということもあるのだろうけれど、ヤヤもすると、どうしても、ココは黙ってやり過ごそう、って、不本意ながらも思いがちだもんな~、我々は」、と。

 この名言、Aくんにとっても、かなりの手強(ゴワ)さ満載の、パワフル名言であるようだ。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.854

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と八十五

「ミザルイワザルキカザル! ミザルイワザルキカザル?」

 時折、目にすることがある「三猿(サンザル)」。それぞれ、目に、口に、耳に、両手を当て、横一列に鎮座するフォーメーションは、ことのほか、愛くるしくキュートだ。

 「見ざる言わざる聞かざる。ご存じですよね」、と私。

 「もちろん。あの、孔子ゆかりの、とも言われている、『三猿(サンザル)』だよね」、とAくん。

 「こ、孔子、ですか」

 孔子とは。さすがにソレなりに驚いてしまう。

 「い、いや。直接、本人に聞いたワケじゃないから、本当のトコロのコトは知らんけど」

 「あっ、そうそう。どういうワケか、この国のピーポーたちには受け入れられなかったみたいなのですが、股間に両手を当てた4匹めの猿がいたらしいですよ」

 「股間に両手を!?。ス、スゴイな、それ」

 「見ざる言わざる聞かざる、そして、せざる」

 「せざる!?。ナンだか、いかにも『戒め』って感じだよな~」

 「そうなんです。コレって、戒め、っていうか、教訓、って、英知、っていうか、とにかく、そんな感じなんです」

 「イヤというほど、デマゴーグやらフェイクニュースやら、怪しげなプロパガンダやらが蔓延しているこの世の中だ。そんな未来を予知して、孔子が、ありがたい『戒め』を、我々に残しておいてくれたのだろう」 

 「と、私も、思っていたのですが」

 「ん?、違うのかい」

 「違う、というか、ナンというか。とにかく、ナニかがドコかで、どうしても引っ掛かって、引っ掛かって仕方がないのです」

 するとAくん、「ナンとしてでも心を乱されないがための、見ざる言わざる聞かざる、せざる、な、ワケだろ」、と。

 心を乱されない、が、ための?

 「つまり、単なる『保身』ではない、ということだ」

 単なる保身ではない、か~。

 「醜きモノから我が身を遠ざける、というコトは、真実から目を背(ソム)ける、というコトと、真逆と言っていいほど、全くもって根本的に違う」

 あっ、あ~。

 ナンとなく、意味もわからずボンヤリと引っ掛かっていたコトの、そのボヤけていた輪郭が、ほんの少し、シャープに見えてきたような、そんな気がした。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.853

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と八十四

「シンジツヲ ミヌケルカ?」

 「真実を見抜くことの難しさ、痛感するよな~」

 重たい溜め息が、そう呟いたAくんの口元からズルリと垂れ落ちる。

 「真実など、そう簡単には見抜けない、と?」

 「そう。しかも、見抜く力は、心が乱されるようなトンでもないコトが起こってしまうと、更に一層、その精度が低下する」

 たしかに、心が乱れてしまっては、真っ当な判断など、到底できそうにない。

 「だからこそ、平時の内に、どれだけ多くのクールな学びをもてたか、もってこれたか、で、全てが決まってくるような気がするわけよ」

 クールな学びの時間を、か~。

 「たとえば、インフルエンサーとして影響力があるにもかかわらず、視野の狭い摘まみ食い程度の学びで、テレビなどでコメントをしてしまうタレントさんたち。ま、テレビ局の強い意向もあるのだろうけれど、好ましくはないよな」

 「上下左右裏表、様々な視点から討論されていくような番組づくりなら、ソレはソレでいいと思います。でも、一つの方向に軽率に突き進んでいくような構成の中では、いわゆるタレント、と、呼ばれる方々が、思惑通りに都合よく利用されている、みたいな、そんなイメージが、どうしても、へばり付いてしまいますよね」

 「とりあえず、視聴率は稼げるだろうから。なんにせよ、平時の学びが、そういった、クールとは程遠いテレビやらネットやらがメイン、と、なると、そりゃ、自ずと偏(カタヨ)ってくるわな~」

 この場合の「クール(cool)」とは「冷たい」という意味なのではなく、おそらく、偏りがちな感情を消し去って、ものごとを「冷静に」見つめてみよう、という意味なのだろう。

 クールな学び。 

 クールな視点。

 クールな分析。

 そして、そこからの、クールな判断力。

 真実を見抜けるかどうかは、まさに、ソコにかかっている、のだろうな。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.852

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と八十三

「ゼッタイダイジョウブ ナ ミキリハッシャ」

 「背に腹は代えられぬ、やら、致し方なし、やら、の、後押しのおかげで、とくに原発関連で、未だ、力をもっている言葉がある」

 ん?

 「ソレが、『絶対、大丈夫!』だ」

 そう語るAくんのその顔には、不安と不満がタラタラだ。

 「ドコからドウ見ても原発は、完全体じゃない」

 完全体じゃ、ない?

 「であるにもかかわらず、なぜ、そんな妄言を吐けるのか」

 妄言、か~。

 「たとえば、『廃棄』というその一点から見ただけでも、完全体じゃないことは明白だろ」

 廃棄、か~。

 たしかに、何十年も棚上げにされたままだ。

 「背に腹は代えられぬ、と、致し方なし、の、後押しを得ての『見切り発車』だった、ということだな」

 見切り発車、か~。

 棚上げにされたままの廃棄の問題もそうなのだけれど、こんなに自然災害が多いのだ。しかも、嘆かわしいことだが、愚かなる権力者たちによって、戦争だって、何時何時(イツナンドキ)引き起こされるかもしれない。それなのに、「絶対、大丈夫!」などと宣えてしまうところに、私も、どうしても、なんだかトンでもなく能天気な恐ろしさを感じてしまう。

 「背に腹は代えられぬ、と、致し方なし、とが抱える『リスク』に対する覚悟もナニもないまま見切り発車をしてしまったわけだからな~。ほら、減速したら爆発する、みたいな、ヤン・デ・ボン監督の映画、あっただろ。あれだよ、あれ、まさに、あれだ」

 あ~。

 たしか、やたらとキアヌ・リーブスがカッコよかった『スピード』、だったと思う。よく似たコンセプトで、邦画にも、あの高倉健が敵(カタキ)役で孤軍奮闘した『新幹線大爆破』という物騒なタイトルの一本があったはず。いったん動き出したら止まれない。止まったら「ボ~ン」。だから、走り続けるしかないのだ。というこの感じ、Aくんの指摘通り、ズンズンと、「見切り発車」が背負っているモノと酷似しているように思えてくる。

 原発に限ったコトではないのだろうけれど、この、背に腹は代えられぬ、と、致し方なし、との、ダブル後押しによって、「見切り発車」してしまった、させられてしまった、そして、それゆえ、「絶対、大丈夫!」と言うしかなくなってしまった、その罪の深さに、大きさに、胃の辺りがヒリヒリと、ヒリヒリと痛くなってくるのである。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.851

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と八十二

「ジャクシャノタメニ ワリヲクウ! ジャクシャノタメニ ワリヲクウ?」

 先ほどから、いや、以前からずっと、ことあるごとに、「愚かなる権力者たちによるその場しのぎの稚拙で短絡的な発言が、行動が、施策が、必ずと言っていいほど『分断』」と『衝突』を呼ぶ」、と、二人して言い続けている。

 ダレかを攻撃することで、ダレかを軽んじることで、歪んだ共感を集め、ダークな輪を広げる。というこの手法は、手口は、どこからどう考えても「分断」と「衝突」を呼ぶだろ、と、Aくんや私でなくても、少し落ち着いて考えてみれば、ダレでもが思うコトであるはずだ。

 そして、その、取り返しのつかない最悪のケースが、あの、「戦争」なのだろう。

 戦争を起こしてでも、多くの弱き者の命を犠牲にしてでも、自分たちの立場を、権力を、利権を、守ろうとするその姿勢に、適切な表現ではないかもしれないが、「狂気」さえも感じる。

 漠然と、重く、そんなコトを考えたりしていると、突然、Aくんがボソリと呟く。

 「弱者のために割りを食う」

 ん?

 またまた、少し、面喰らう。

 「ピーポーたちの心の中に、弱者のために割りを食う、という意識が、ブヨブヨと膨らんできつつあるような気がしてならないんだよな」

 弱者のために、割りを食う、弱者のために割りを食う、か~。

 「その意識もまた、支持を得るために、ダレかを共通の敵に仕立て上げて攻撃してきたことで、生み出されたモノ、というコトですか」

 「そういうコトだ。弱者たちのために、なぜ、私たちが辛い思いをしなければならないのか、犠牲にならなければならないのか、などといった意識が、考え方が、万が一にもスタンダードなものになってしまったとしたら、もう、この社会は、国は、世界は、トンでもない方向に突き進むことしかできなくなってしまうはずだ。そうは思わないかい」

 恐ろしい、ホントに恐ろしいことだ。

 そうした、「弱者のために割りを食う」という闇の広がりによって、ジュクジュクと病んでいくこの社会の未来は、・・・いったい。

 するとAくん、ほんの少し先生っぽい顔つきで、「謝らない、も、子どもたちとって相当に好ましくないけれど、この、弱者のために割りを食う、は、間違いなくそれ以上に、目一杯、子どもたちの人間形成にとって、成長にとって、好ましくないよな~」、と。

(つづく)