ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.730

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と七十一

「クロシロヲ ツケル」②

 私なりに掘り下げてみる。

 ・・・

 同情?

 ソコまで追い詰めなくても。

 共感?

 ソレもまた致し方なし。

 軽視?

 大したことじゃない。

 恐怖?

 とにかく、怖い。

 拒絶?

 知りたくもない。

 忘却?

 忘れたい。

 ・・・

 掘り下げれば掘り下げるほど、ナンとなく滅入ってくる。

 普通なら、誰だって真実を知りたいと思うはず、の、この、「普通なら」という言葉すら、空しく感じられてくるのである。

 ・・・。

 するとAくん、よほどのお気に入りなのだろう。先ほども、これでもかというぐらいの妖しさで歌い上げてくれた、あの、菅原洋一の♪知りたくないの、を、いま再び、もうワンランク上の哀感まみれ、で、熱唱する。

 あ~なたの~過去など~知り~たく~な~いの~

 済んで~しま~ったことは~仕方な~いじゃ~ないの~

 あ~の人の~ことは~忘~れてほ~しい~

 たとえこの私が~聞いても~いわ~ないで~

 (つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.729

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と七十

「クロシロヲ ツケル」①

 アレやコレやと分断三昧の様相を呈しつつあるこの社会であるけれど、そんな数多ある分断の中で、「黒白をつける、黒白をつけたくない」の分断もまた、なかなか厄介な分断だと言っていい、とAくん。

 その典型的な例が、あの、見事なまでの公文書の黒塗り、なのかもしれない、と、補足する。

 黒白、白黒?、クロシロ、コクビャク?

 「とにかく、その、黒白を、つけたくないんだという強い思いからの、え~い、全部黒く塗っちゃえ~、って、ことですか」

 「少しでも黒白をハッキリつけたいという思いがあるのなら、アレほどまでの姑息な黒塗りはしないだろ」

 そりゃそうだ、たしかに、おっしゃる通り。あんな黒塗りなどするわけがない。

 「とにかくだ、ナニよりも問題なのは、ソレを良しとする、もしくは、ソレもまた致し方なしとする、という、そんな人たちが数多くいる、ということ」

 なるほど、黒白をつける派、と、黒白をつけたがらない派、との、分断だということか。

 「でも、なぜ、黒白をつけたがらないのですか」

 私の常識から大きく逸脱するその感覚が、どうしても解せないものだから、おもわず尋ねてみる。

 「ま、当人たちは、ナニかマズいと思うところがあるからこそ黒塗りをするのだろうけれど、なぜ、当人たち以外のピーポーたちまでもが、黒白なんてつけなくていい、と思うのか、は、たしかに、かなり謎めいているよな」

(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.728

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と六十九

「トクベツナ オ!」②

 「つまり、オ、は、特別なんです。ということなんだろう」

 特別なんです、とは。

 「だから、特別な、オ、を、特別ではないものには付けられない」

 特別ではないもの、とは。

 ますますナゾがナゾ呼ぶナゾナゾワールドに突入だ。

 「それゆえに、パラリンピックにもデフリンピックにも、オ、が、ない」

 あっ、あ~。

 オ、が、ない。

 ナゾがナゾ呼ぶナゾナゾワールドの出口が、一気に見えた気がする。

 「パラオリンピック、デフオリンピック、ではない、ということですね」

 「そう、そういうこと。他の競技会とは違う特別なモノであるのなら、尚のこと、全て丸ごとひっくるめてオリンピックだろ、と、普通、考えるはずなのに、特別なモノのその特別が、多様性とか共生とかといった理想を謳ったモノなのではなくて、いかにも権威主義的な、単なるヒエラルキーの頂点ということに過ぎない、となると、どうしても、高まろうとする気持ちも、盛り上がろうとする気持ちも、萎(ナ)えてしまう」

 なるほど、権威の象徴として、ソコに「オ」がある、ということか。

 そういえば、たしか、最初は、パラプレジア(Paraplegia )の「パラ」であったものが、その後、いつのまにか、パラレル(Parallel )の「パラ」に移行した、みたいなことが、どこかに書かれていたように記憶する。この移行、ひょっとしたら、「パラ」繋がりというだけの安易な移行ではないのか、と、どうしても、勘繰ってしまう。

 永遠に交わらない「平行」という意味をもつ、この「パラレル」である限り、「オリンピックが特別なモノであるからこそ、ソコに、オ、は、付けられないんだよ」という、そんなシモジモじゃないエライ人たちの凝り固まった考え、を、変えることなどできるわけがない、か。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.727

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と六十八

「トクベツナ オ!」①

 ソコに、たった一文字「オ」があるだけでいい。そのコトでようやく、頑固なまでに融通が、全く利かない鋼鉄の扉が開かれ、僕たちの視野もググッと広がり、それまで見えなかったモノもシッカリと見えてくる、かもしれない、と、語るAくんには申し訳ないのだけれど、ナンのことやらサッパリ意味がわからない。

 「お、・・・ですか」

 「そう、オ!」

 その、「お」、に、ナニやら凄まじいパワーでも秘められている、ということなのだろうか。

 するとAくん、少し曇ったようにも見える表情のまま、「そもそも、サクッとそのまま、オ、が、ソコに付いたままであったとして、誰が文句を言うのか、って話だよな」、と。

 ナンのことやらサッパリなだけに、コメントのしようがない。

 「でも、文句を言う者がいたってことですよね」、と、とりあえず、苦渋のコメントでその場をしのぐ。

 「そうなんだよな~。ソコに、オ、が、付いてもらっちゃ~マズいんだよね、と、偉そうに言うヤツがいたわけだ」

 サッパリなんだけれど、ナニやら、ジワリジワリと気になって気になって仕方なくなってくる。(つづく)

 

 

 

 

 

追記

 若い頃、ナゼだか少し苦手であったザ・ローリングストーズのメンバーの中で、ナゼだかお気に入りだったドラマー、チャーリー・ワッツ、が、亡くなった。

 ナンとなく漂うジャジーなグルーヴ感が極上で、一生、死なないでほしかった、と、あらためて思う。

 合掌。

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.726

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と六十七

 「シミヤラ ゴミヤラ ノ イミヤラ」

 ナンてことのない雑談とか、どうでもいいようなものだけれど妙に気になる細やかなる出来事とか、あるいは、見逃しがちな小さな落書きとか、といった、生活の中の「シミ」みたいなモノから、キラリと光るナニかが始まる、というコトって、結構、あったりするんだよな~、と、シミジミと語り始めた、Aくん。

 生活の中の、シミ、か~。

 あっ。

 そう言えば、以前に、ソレに似た話を、ドコかで耳にしたことがある。

 大慌てで、脳内コンピューターをフル稼働して思い出そうと試みる。

 ある政治関係のシモジモじゃないエライ人(というか、どちらかと言うと、エラソウな人、だな)が、大学の学部なんてモノは、実益や実用性、即効性、こそが、キモ。結果がハッキリと見える、わかる、「使える学部」こそが価値ある学部で、ソレだけでいい、充分だ、みたいなことを、その雰囲気と同じくエラソウに、宣っていたのである。おそらく、Aくんが言うところの「シミ」のような学部ではダメだということなのだろう。つまり、シミみたいなモノからはナニも生まれない、と。オマケに、税金を投入しているのだから、無駄にならないようにしてもらわないと、と、まで、宣い出す始末。

 あっ。

 そうだ、そのエラソウな人のその言葉に対する、ある大学関係者のコメントだった。思い出した、間違いない。

 最初からコレだ!、などというモノはありはしない。数多ある「ゴミ」のようなモノの中に、奇跡的にすこぶるマレに、コレは!、というモノが潜んでいたりする。研究なんてものは、そもそもそういうモノなのだ。だからこそのソコからの爆発だ、みたいな、そんな感じの内容であったと思う。

 するとAくん、私の、限りなく独り言に近い「ゴミの中からイミあるコレが爆発する」理論、を、受けて、の、そんな、「シミ」やら「ゴミ」やらに潜む、かもしれない、そのイミ(意味)こそが教育なんだ、と、わかりにくさは満載ながらも、熱く、熱く、熱く、独自の教育論。

 「ほとんど無駄なままで終わってしまうような雑談や落書きや、手当たり次第の雑多で意味不明な取り組み、といったモノの中から、が、むしろホンモノのキモ。そりゃ、当然、邪魔臭いコト、トラブル、なんぞも、ポコポコッと生まれてくるかもしれないけれど、それ以上に大切な、とても大切なナニかが、ソコから生まれてくるかもしれないわけで、だから、だからこそ、無難にやり過ごそうとするのでなく、ナニかを生み出そうとするのなら、ナニかを生み出したいのなら、そんな、生々しいライブ感溢れる教育の現場でなければならない、って、心の底から思うんだよな~、僕は」

(つづく)

 

 

 

 

追記

 ここ数週間、ズルズルと結論を出せないままでいる。

 ただ、どちらかしか開催をすることができない、というのなら、私は、些(イササ)かの躊躇もなく、パラリンピック、と、答えるだろう。

 それでも私は、それを、会心の決断だとは思っていない。

 この、トンでもない嵐の中で、オリンピック、パラリンピック、は、どうあるべきなのか。

 私の思いは、切なくなるほど、情けなくなるほど、ずっと揺れ動いている。

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.725

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と六十六

「スポンサー ナンテ スッポンサ~」

 かねてからAくんは、カネ(金)による魂の支配に対して、警鐘を鳴らし続けている。

 この、「カネによる魂の支配」、なかなかどうして、かなりの手強さで、しかも罪深い。

 「邪念もナニもなく、ポンとおカネを出してくれる、なんてこと、そうそうあることじゃ、ない。本来、その趣旨に賛同して出資するわけだから、おカネは出すけれどクチ(口)は出さないよ、が、スジ。そのスジは、当然のごとく尊重されるべきモノなんだろうけれど、現実は、たいていの場合、そうは問屋が卸さない」

 Aくんの、目一杯悲観的なその指摘通り、振り返れば、「あ~」、と、納得してしまうことが、そこかしこにあることに気付く。カネは出すけれどクチも出す、出したからにはベッタリとへばり付く、が、スタンダード、だと、いうことなのだろう。

 「そう言えば、あの大阪弁が」

 またまた、Oくんのことだ。

 「国やら企業やらナンやらカンやら、と、その時その時で、その場その場で、スポンサーは色々とおまっけど、そもそもやね、スポンサーなんてもんは、一旦ソコにガブリと噛み付いたら、そう易々と離したりはしまへんで~、の、あの、スッポンみたいなもんでっせ、と、やたらと自信満々に言い放つ、わけよ」

 ま、ま、まさか、「スポンサー」のその語源、まさかの「スッポンさ~」からの、スポンサー?、・・・、ないない、それは、さすがに、絶対にない。(つづく)

ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.724

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と六十五

「アイシュウ ノ カツオブシケズリキ」

 この際、衛生的にどうのこうのなどということはどうでもいい、と、思わしてくれるほどの旨味のカタマりを、魔法のように生み出すスーパーツールだったんだ、と、懐かしむように、Aくん。

 Aくんが宣うところの、その、衛生面では少々問題はあるかもしれないものの、そんなネガティブな懸念をアッサリと吹き飛ばすだけの、旨味のカタマリを生み出すツールとは、一体、ナンなのだろう。

 「使い込まれたその木製の旨味のカタマリ製造器は、経年劣化で角も取れて、見た目は随分と黒ずんできてはいるんだけれど、その触り心地は優しく、手にも馴染んで実にいい感じなんだよね」

 Aくんの熱き語りに、更に一層ズンズンと、期待と興味が誇張する。

 「刃の調整もまた、結構、キモで、当然、人それぞれコダワリもある」

 歯?

 「スーパーで売られている、おそらく機械削り、の、袋入り花かつお、も」

 あ~!

 「それはそれでいいのかもしれないけれど、旨味のカタマリのそのレベルが、同じ土俵では語れないほど、かけ離れているわけよ」

 刃、か~。

 鰹節削り器の、刃、だ。

 「鰹節削り器、ですよね」

 「そう、鰹節削り器。言わなかったっけ」

 「旨味のカタマリ製造器、としか」

 「言わなかったかな~。ま、いいや。で、とにかく、ホントに、比較にならないほど旨かったんだよね、ソレが」

 遠い昔の我が家の鰹節削り器、その記憶がユルリと蘇る。

 「我が家にもありました、鰹節削り器。幼い頃、私が、その担当で、母親に頼まれて、なぜか、あたかもベテランの職人みたいな顔をして、削りに削っていたんです。でも、いつのまにか使わなくなった。使われなくなった鰹節削り器は、次第に食器棚かナニかの奥の方にズリズリと追いやられて、そのまま私の記憶からも」

 「消えちゃうんだよな~」

 消えてしまう。

 なぜ、消えてしまったのだろう。

 なんだか少しイヤな気持ちになる。

 「コレもまた、あの、ひたすら便利さやら利便性やらのみを追い求める怪獣ベンリザウルスの仕業(シワザ)なのかもよ」

 ベンリザウルス、か~。

 「誰の舌にも一目(イチモク)、いや、一舐め(ヒトナメ)瞭然、ほどの、その旨味の、旨さの、違いがあるにもかかわらず、消えてしまう。コレなんだよ、コレ。哀愁の鰹節削り器に限らず、この国は、アレもコレもが、まさに、あの、現代社会における利便性の申し子、ベンリザウルス、に、喰い散らかしまくられた、その、成れの果て、ってことなのかもしれないな」

(つづく)