ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1397

はしご酒(Aくんのアトリエ) その八百と二十八

「デモ ト シュプレヒコール ト ミンシュシュギ  ト」

 当然のごとく、民主主義先進国なら当たり前の、デモ。シュプレヒコール

 にもかかわらず、ナゼか、この国のピーポーたちは、そういったデモを、シュプレヒコールを、ちょっと変わった人たちによる迷惑行為と断じがちだ。

 コレは、いったい、ナニに起因するのか。

 何度もその究明に挑んではみたが、残念ながら力及ばず、結論にまで至ってはいない。

 そんな中、ある渦中のその周辺におられる政治関係者らしき人物が、「姪が、下校中に見掛けるそのデモを、シュプレヒコールを、怖がっている」、と、宣う。宣ってしまう。宣ってしまえる。

 ナゼ、彼は、宣ってしまえるのか。

 本当なら、彼の姪が、心底、怖がらなければモノはナンなのか、を、民主主義の本質を中心に据えつつ、できる限りの丁寧に、ユルリと、教えてあげなければならないはずの立場であるにもかかわらず、彼は、おそらく、ナニかを、ダレかを、守るために不都合な、デモを、シュプレヒコールを、やめさせるために姪まで担ぎ出す。担ぎ出してしまう。担ぎ出してしまえる。わけだ。そのナンともカンともな姑息さ、というか、卑怯さ。ズルさ。みっともなさ。は、あまりと言えばあまりにも、情けない。情けな過ぎる。

 彼が、「彼」系のおエライ人たちが、そんな情けな過ぎる言動やら振る舞いやらにウツツをぬかしているうちに、おそらく、近い将来、彼の姪は、本当のトンでもない「怖さ」に直面することになるだろう。そして、その「怖さ」が、その「怖さ」こそが、彼女が、今まで、当たり前のように普通にソコにあるモノと信じて疑わなかった彼女自身の権利を、自由を、夢を、希望を、奪う、奪ってしまう、本当の「怖さ」なのだ、というコトを、否が応でも気付かされる。

 という、悲劇。

 デモと、シュプレヒコールと、民主主義を、軽んじ、馬鹿にし、ちょっと変わった人たちによる迷惑行為などと断じて悦に入っている間に、その「悲劇」は、間違いなく、躊躇なく、悲しくなるぐらい軽やかに、私たちに踏み入ってくる。

 そんな、私が、今、不本意ながらも抱いている、この危惧、懸念、「怖さ」。は、幸か不幸か、今なら、普通の感性さえもち合わせていれば、ほんの少し世界に目を向けただけで、容易に、リアルに、感じることができるはずだ。(つづく)