ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1379

はしご酒(Aくんのアトリエ)  その八百と十

「ゴホウ ト テイセイ ノ ハンピレイナ カンケイセイ?」

 事実の軽視?

 事実確認の怠慢?

 まさか、イデオロギー絡みの意図的な偏向報道

 そして、シレッと目立たないように、目立たせないように、小さく「訂正」?

 ある、ソレなりに大手の某新聞社による「誤報」。いや、誤報事件というべきか。

 そう、「事件」。事件なのである。

 ナゼなら。

 その誤報によって、嬉々(キキ)として、その対象者を口撃の的にしたがりがちなピーポーたちが、数多(アマタ)、いるからである。

 しかも。

 いつものコトながら、テレビも含めてメディアって、ナゼか誤報の訂正が「小さい」。百歩譲って、その誤報が人畜無害の誤報であったなら、ひょっとしたらその程度の訂正で許されるのかもしれない。しかし、歴然とソコに被害者がいるのである。にもかかわらずナゼか小さな訂正。そんなモノで許されるとは、到底、思えない。

 常識として。

 訂正は、皆を注目せしめるために、できる限り「大きい」ものでなければならない、と、思うのが普通。にもかかわらず、そうは問屋が卸さないトコロが、まさに、ナゼ?、が、ナゼ呼ぶ、ナゼナゼワールドなのである。

 あっ。

 もしかすると、あの小ささは、「申し訳ない」という気持ちの量を表しているのかもしれない。いや、きっとそうだ。そうに違いない。ハナから「申し訳ない」などと思ってはいないのだ。そんな思いがブクブクと、私の中で膨らんでいく。

 「勘繰り過ぎなのかもしれませんが、メディアって、トンでもない誤報をしでかせばしでかすほど、その訂正が『小さい』んじゃないかと」、と私。

 「誤報と訂正の反比例な関係性、ってヤツな」、とAくん。

 誤報と訂正の、反比例な関係性、か~。

 「ほら。コチラの愛が大きければ大きいほど、アチラさんの愛が萎(シボ)んでいく、ってのと、なんとなく似ているだろ。アレと同じなんじゃねえか」

 ソレは違う。

 全くもって、根本からナニもカもが違うと思う。

(つづく)