はしご酒(Aくんのアトリエ) その七百と三十七
「マジメ デ ソフト ナ サイコパス」
情緒的共感性が欠落してはいるが反社会的ではない。そんな感じのサイコパスが、無自覚のうちに、この国の、この星の、そこかしこでジワリジワリと繁殖中だという。
「サイコパス」
と、Aくんに負けないぐらいの唐突感で、私。
「んんん?」
と、困惑気味の、Aくん。
Mr.唐突感のAくんは、相手からの唐突感攻撃には、滅法、弱かったりする。
「私が抱いているサイコパスのイメージは、やはり、攻撃性を伴った反社会的。ですが、ナニやらソウではないマイルドでソフトなサイコパスが、しかも、巨大な権力まで手にして、この星のアチコチでその存在感を発揮し始めているような気がして」
「ソフトなサイコパス、ね~」
そう呟くと、Aくん、またまた、例の沈黙の扉を開けてしまう。
ヤバい。
と、思ったけれど、もう遅い。沈黙ついでに、Aくん、テーブルの上をチャチャッと片付けて、またまた、またまた奥へと姿を消してしまう。
キレイに片付けられたテーブルの上をボンヤリと眺めつつ、ユルリと、そのソフトなサイコパスをより深く追求してみようと自分なりの考察を試みる。
・・・
レクター博士でも、ジョーカーでも、あの『ミザリー』のアニー・ウィルクスでもない、ソフトな、サイコパス。
おそらく。
当の本人は、己がそんな感じのサイコパスなどとは微塵も思うことなく、ただ、ひたすら、一般ピーポーたちのために、日々、周囲を怒鳴りつけながら、ごく真面目に、実直に、頑張っておられるだけなのかもしれない。
と、なると。
反社会的ではないわけだから、ソレもまた「個性」。と、思えなくもない。
そう、個性。
ならば。
そうしたレッテル貼りは、一つ間違えると差別にさえ繋がってしまいかねない、とさえ、思えてくる。
・・・
情緒的共感性の欠落。
つまり。
共感はできる。共感はできるが、「情(ジョウ)」に繋がる回路が切断されてしまっている。と、いうことか。
しかも。
その切断は、己の意思によるものではない。そんな意思とは関係なく切断されてしまっている、というイメージ。か。
だから。
認知はできる。相手が喜んでいる。怒っている。悲しんでいる。は、わかる。
けれど。
その喜びを、怒りを、悲しみを、己の喜びと、怒りと、悲しみと、して、感じることはできない。そう、感じようとしない、ではなく、感じることができない、のである。
そう、ソレが、情緒的共感性の欠落、なのだろう、きっと。
と、なると。
できないコトに対して私たちが糾弾することは、やはり、ヤヤもすると差別に繋がりかねない。か。そんな気がする。
・・・
おそらく。
おそらく問題は、情緒的共感性が欠落したその人自身にあるのではなくて、情緒的共感性が欠落した人間が大きな権力を握ってしまうことにあるのだろう。
つまり。
情緒的共感性が欠落した権力者が齎(モタラ)すであろう悲劇。この悲劇こそが、トンでもなく捨て置けない大問題だということ。
たいした考察ではないが、真面目でソフトなサイコパスの、その静かなる恐ろしさが、自分なりに、少し、見えてきたような気はする。(つづく)