ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.1288

はしご酒(Aくんのアトリエ) その七百と十九

「ノボリザカ ト クダリザカ ト」

 「生産性とか効率化という上り坂の舞台では活躍できなかった人、差別されてきた障がい者や移民や難民の人々が、挑戦できる社会になるのではないか」

 コレは、下り坂のこの国への、むしろ、エールなのであろう、あるお坊さんの言葉である。のだけれど、私にとって、そのお坊さんの言葉の意味を掴み切ることは、容易なことではなかった。上り坂において差別されてきた人たちが、ナゼ、下り坂で差別されないのか、活躍できるのか、挑戦できるのか、が、どうしても、理解できなかったのである。

 しかしながら、理解できないままにしておくのも癪(シャク)なので、自分なりにジックリと考えてみた。

 すると、なんとなくながらも微かに、見えてきたモノがある。

 ソレは、脚下照顧(キャッカショウコ)。 

 たしか、調子に乗らず、傲慢にならず、まず足元をシッカリと見つめなさい。と、いう、禅の教えであったと思う。

 おそらく、イケイケの上り坂では、その脚下照顧を、自分の中に落とし込むことが難しいのだろう。だから、却(カエ)って長い下り坂の縮む時代の方が、スルリと自然に、落とし込むことができるのではないか。と、いうコトを、あのお坊さんは、私たちに伝えたかったのではないだろうか。自分なりにジックリと考えているうちに、そんな思いがプクプクと湧き上がってきたのである。

 そういえば、「生産性がない」などと、弱者を切り捨てるような言動に命を懸ける政治家がいたりする。

 ん?

 既に、もう、イケイケの上り坂ではないと思うが、ナゼ、あの人たちは、下り坂であるにもかかわらず、まだ、そのような言動に明け暮れるのか。

 不思議だ。

 ひょっとしたら、あの人たちは、まだ、上り坂だと思い込んでおられるのかもしれない。だから、たとえば、「強いナンチャラ、豊かなナンチャラをつくっていく」とか、「ナンチャラを、取り戻す」とか、「ナンチャラを、もう一度、世界のてっぺんに」などと、未だに、相も変わらずヤタラと勇ましいコトばかりを宣いがちなのだろう。(つづく)