はしご酒(Aくんのアトリエ) その七百
「スクワレテイル ヒト モ イル」
「信じなさい。信じる者こそ救われる」
ん?
「裏切られ、絶望し、ナニもカも信じられなくなってしまったとしたら、ソレは、やっぱり、悲劇以外のナニモノでもないだろ」
信じられなくなる、悲劇、か~。
「僕はね、物質的なモノとは真逆の、たとえば、宗教的な、哲学的な、精神的な、モノを、信じられる、信じる、コトで救われるその感じ、こんなご時世だけに素晴らしいコトだと思っている」
同感。
そうしたモノが自分の中に沁み込むことで心の安定が保てるなら、浄化できるなら、ソレは素晴らしいコトだと、私も思う。
「思ってはいるけれど」
ん?
「だからといって、『信じなさい。信じる者こそ救われる』を全面的に支持する気にはなれないんだよな~」
ん~。
今宵、コトあるごとに登場してきたこの話題。酒も入っているので、どうしても、繰り返し繰り返し登場しがちなのだけれど、おそらく、その度ごとの結論が、いま一つ決め手に欠けるからなのだろう。
「ダレが、ダレに、ナニを、ナンのために、信じなさい、信じる者こそ救われる、なのか。そもそも救われるとは、いったい、ナンなのか。肝心要のソコをウヤムヤにされたままで、無防備に受け入れることはできない」
できない。
「『信じなさい。信じる者こそ救われる』は、脅迫であってはならないんだ。宗教は、不安を、恐怖を、煽るものではない」
その通り。
宗教とカルトとの間にある一線は、まさにその辺りにあるのだろう。
「ナンのために煽る?」
「次の一手を打ち易くするため、だと思います」
不動明王をこよなく愛す仏教フェチの私であるだけに、「宗教とカルトとの間にある一線」問題は、以前からズッと、私にとっても重要なテーマの一つになっている。
「そう、次の一手。次の一手とは、つまり、煽るだけ煽って、だからその不安を、恐怖を、払拭するためにコレを買いなさい。献金しなさい。みたいな」
「コトになりがち。ソレって、もう、典型的な不安商法の手口ですよね。しかも、救われるレベルが、ランクが、その額に比例したりする」
「あり得んだろ、そんなの」
あり得ない。
「にもかかわらず、テレビかなんかで、平然と、『救われている人もいる』などと宣ってしまう、しまえる、コメンテーターがいたりする」
あ、あ~、アレだな。
おそらく、宗教とカルトとの間にある一線が見えない、見ようともしない、ゆえの、稚拙で無責任なコメント、ということなのだろう。
「先ほども言ったが、そもそも救われるってナンなんだ、って話なわけよ。あなたに関わる多くの人たちが不幸になろうと、そんなコトは微塵も顧みられることなく、巨額の献金をして、いや、させられて、私は救われた、は、絶対に、ない。そんなのは、神さんや仏さんの『救う』じゃねえんだ。神さんも仏さんも、そんなダークで姑息な救い方は、絶対に、絶対にしないから」
(つづく)