はしご酒(Aくんのアトリエ) その六百と九十六
「コッカ タイ コッカ トイウ ヘイワノサイテン?」
とくに平和の祭典として他の追随を許さない天下御免のビッグイベントがオリンピックなんだろうけれど、と、まだまだオリンピック系で繋いでいこう感、満々、の、Aくん。ナニかと物議を醸しがちなオリンピックであるだけに、他にも、きっと、気になるナニかがあるのだろう。
そう、気になるナニか。
その気になるナニか、が、私も、妙に、気になってくる。
「選手が国の代表として戦う国家対国家という図式が強調され過ぎるコトに、どうしても、違和感を覚えてしまうわけ」
国家対国家、か~。
「応援する我々が、勝手に、自国の選手を応援するのは自由だが、選手たちに、エラそうに、国家のためにガンバれ、などと宣い出すことに、ちょっとした恐ろしささえ感じてしまう」
たしかに、その前者と後者では根本からナニもカもが違う。国家のために戦うコトを強いられた後者は、残念ながら、悲しいかな、もはやスポーツでもオリンピックでもナンでもないように思える。
あえて、あらためて言わせてもらうが、そもそもスポーツなのだ。スポーツなのだから、スポーツの、オリンピックの、その醍醐味を堪能しつつ楽しみつつ、自分自身のために戦う、で、いいと思う。
そう、あなたのためのスポーツ、オリンピック、で、いい。
そう、国家のためではなく自分自身のためで、いいのである。
「ま、100歩譲って、応援してくれた、応援してくれている、そんな人たちのために、なら、まだしも、国を背負って、国のために、みたいなことになり過ぎると、平和の祭典であるべきオリンピックのそもそもの意義からドンドンと解離していくような気がしてならないんだよな」
ん、ん~。
ただ、・・・。
国家対国家という平和の祭典、に、漂う、矛盾、危惧、あるいは、限界、感。私も、抱かなくはない。抱かなくはないけれど、この星のそこかしこにダークに漂うヤタラとキナ臭いナショナリズムの一つの抑止力として、こういった疑似、代替、ナショナリズム、プチ・ナショナリズム、は、ソレなりに存在意義がある、という思いも捨て切れないのである。
「とはいえ、人畜無害でキュートなプチ愛国心、いわゆるスポーツ・ナショナリズム、も、場合によっては必要だと、私は思うのですが」
するとAくん、だから困っちゃうんだよな~感満載に、力強く、こう結論付ける。
「スポーツ・ナショナリズム?。いい、いいよ、スポーツ・ナショナリズム。ソレはソレで大いに結構。ただ、ココで声を大にして言っておきたいのは、選手たちに対して、『国の代表だろ。なら、御国のためにガンバるのは当然のこと』からの『国の代表だろ。ナゼ、歌わない?、ナゼ、口パク?、歌えよ、国民なら国歌を御国のために声高らかに斉唱しろよ』みたいなそんな高圧的な強要を、この国は、いとも簡単にしてしまいがちだというコトを、肝に銘じておいてほしいわけ。ソコに、この国が抱える深い闇がある、ということだ」
(つづく)