はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と百と十
「アタマヤマ」
「しかし、その生活アタマ、いいね~。うんうんうん、いい、いいよ、生活アタマ、ホントにいい」
余ほど気に入ったのか、Aくん、生活アタマ、生活アタマ、と、ヤタラと連呼。
「そのお坊さんに、もう一度会うことがあったら宜しく言っておいてよ。できることならこの僕も、お会いしたいぐらいだ」
あの時のお坊さんか~。
なんとなく覚えては・・・、いや、だめだ、顔すら思い出せない。
「わかりました」、と、とりあえず。
どころか、どちらのお寺だったか、それさえも曖昧。
するとAくん、突然、「生活アタマ、ならぬ、アタマ生活。本人の思いとは裏腹に、アタマの上が、町の人たちの生活の、憩いの、そんな場になってしまうという『アタマ山』。大好きな落語のネタの一つなんだよな~」、と。
「ア、アタマ山、ですか」
「そう、アタマ山。このシュールでトリッキーな落語の元ネタが、すでに江戸時代にあったというんだから、スゴいよね」
「ソレって、どんなネタなのですか」
「主人公は、ある、ひとりの老人。町の人たちと関われない孤独な老人なわけよ。ま、当の本人は、孤独だなどと、微塵も思っちゃいないんだけどね。で、ある日、そんなその老人のアタマの上が、ひょんなことからエライことになる。桜の木は数多の花を咲かすは、根こそぎ抜き去れば抜き去ったでその穴が大きな池になってしまうは、で、人々が集まる集まる、メチャクチャ集まるわけよ。もう、あの、カフカの『変身』にも似た不条理感がグジュグジュと漂っているんだよな~」
「グジュグジュと、カフカの変身、ですか」
カフカの『変身』なら知っている。そういえば、たしかに、不条理の塊(カタマリ)のような話だった。
「ヤレ、花見だ~、魚釣りだ~、などと、口々に大声で喚(ワメ)きながら、町の人々は大盛り上がり。なんだけれど、結局、当の本人は生きることがジャマ臭くなって」
「ど、どうなったのですか」
「その池にドッボ~ンと」
「えっ!」
なんという落語だ。
「それがオチなのですか」
「そう、それがオチ。町の人たちと関われない、関わろうともしない、老人が、せっかく町の人たちとの関係性が生まれそうになってきたにもかかわらず、生きることに疲れて、ジャマ臭くなって、ナゲ槍になって、その老人のアタマにできた大きな池に身を投げてしまう。という展開に、ストーリーに、徐々にコミュニティが崩壊しつつある現代社会の闇が投影されているような気がして、ならないんだよな~」
ふ~。
おそらく、生活アタマ、からの「アタマ山」なのだろうけれど、「生活アタマ」そのものには、ほとんど関係はなさそうだ。しかし、自分のアタマが、結局、最終的には自分を追い込んでいく、追い詰めていく、というその結末には、本来、アタマはどうあらねばならないのか、という、アタマのそのあり方みたいなモノが、なんとなく、暗示されているような気もしてきて、ならないのである。(つづく)