はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と二十七
「ダサイ ジダイ」
「時代」シリーズが、立て続けに二つ続いたところで、Aくん、「そして、もう一つ」と、更に畳み掛けてくる。
地味なことには目を瞑(ツム)り、平気で人を騙(ダマ)して、と、それだけでも充分に罪深いのに、更に「そして、もう一つ」とは。さすがに、かなり身構えてしまう。
「ダサい時代!」
ダ、ダサい?、時代?
「正確には、ダサいと思う時代、だな。フワッとした民意の賜物(タマモノ)なのかもしれないが、ムキになること自体が『ダサい』、という、そんな時代であるような気がしてならないわけよ」
ムキになること自体が、ダサい?
「時と場合によっては『ムキになる』こともまた、大切なコトのはずなのに」
にもかかわらず、ダサい、と、思ってしまうその感じ、ナンとなく、わかるような気もする。
「感情を露(アラワ)にすることが『ダサい』というその感じ、私もナンとなくながら、このところの世の中の風潮から、時折、感じることがあります」
「そう、そう、その感じ、あるよな~。で、その感じが、圧倒的な権力に、権力者に、どれほど軽んじられ、バカにされ、痛めつけられたとしても、反旗なんか翻(ヒルガエ)させないし、闘ったりもさせない。とにかく、その感じが、堪える、我慢する、という姿勢を、スタンスを、この国の一般ピーポーたちの意識の中に定着させた、ということなのかもしれないな」
闘ったりせず、とにかく堪える、スタンス、か~。
「言っておくけど、この場合の『闘う』は、戦争みたいなものを指しているわけじゃない。むしろ、闘わないために闘う、だな。わかるかな~」
またまた少し、ヤヤこしくなってきた。
「フワッとした民意が、場合によっては、この国を、この世界を、ズルズルと致命的な闘いに至らせてしまうかもしれない。そんなトンでもなく愚かなコトを、意地でも阻止するために闘うという意味の、『闘う』」
まさにAくんワールド。更に一層ヤヤこしい。のだけれど、だからといって、Aくんが言うところの「闘う」のその意味が、全くもってわからない、というわけではない。むしろジワジワと伝わってくるものがある。
「たとえば、たとえばだ。この国には、どうしても『デモ』が根付かない」
デモが、根付かない?
「闘う姿勢を見せることが『ダサい』。だから根付かない。つまり、いとも簡単に、デモなんてダサい人たちによるダサい行動、というレッテルを貼ってしまうわけだ」
デモが、ダサい行動?
「しかし、しかしだ。ナンとも恐ろしいことなのだけれど、『戦争』に対しては、ダサいと思わなかったりする」
戦争は、ダサくない?
「ダサいという言葉が適切かどうかは別にして、『デモ』がダサいなら、もう『戦争』なんて、ダサいなどいう言葉で表せないほど、ダサダサダサダサダサダサダサダサダサダサダサダサダサダサダサダサ」
「わかったわかった、もうわかったから」
あまりにも私がムキになったものだから、Aくん、そんな私のダサダサマシンガン攻撃を、思いっ切り制止する。
「す、すみません。なんか腹が立ってきて。戦争よりもデモの方がダサいなんて、絶対にあり得ません」
「そのイメージの植え付けが、植え付けこそが、悲しいかな、戦後教育の見事なる成果、ということなのかもな」
ナ、ナンという見事なる成果なのだろう。
悍(オゾ)ましい、悍まし過ぎる。(つづく)