ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.879

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百と十

「タヨウセイガ リントシテ ソコニアルタメニ」②

 「何度も言ってきたことだけれど、やっぱり、『差別』が、『差別する心』が、ソコにある限り、笛吹けども踊らず、結局、根本の部分は、ナニも変わらないような気がする」

 笛吹けども踊らず、か~。

 「そして、この星において脈々と続いてきた、謂(イワ)れも根拠もナニもない『上下感』。差別が生み落としたコイツのために、とかくこの世は、多様性にとって、ホントに生き辛い、としか思えない」

 そう、私も思う。

 多様性とは、アイデンティティー。アイデンティティーが尊重されてこその多様性であるはずだ。つまり、私が私であることに、私のままでいることができることに、意味がある。

 人種、国籍、出生、性別、職種、障がい、疾病、・・・、ソレらの下に私がいるのではなく、ソレらは全て、私の下にブラ下がっているモノたちに過ぎない。もちろん、それらもまた、私が私であるための大事な一つひとつではある。しかし、私は、ナニものにもブラ下がってはいない、あくまでも私という個性をもった、独立した私自身なのである。そして、そんな私が、凛として生きていくことができる社会こそが、私たちが目指すべき社会であり世界なのだ。と、思いたい。そう信じたい。

 「差別する心やら謂れのない上下感やらといったモノがソコに存在しなければ、あらためて声(コワ)高に『多様性、多様性』などと訴える必要もないわけだからな」

 おっしゃる通りだ。

 これほど「多様性、多様性」と、あえて宣わなければならないのは、つまり、現実は、想像以上に、差別に、差別する心に、そして、ソコからの上下感に、塗(マミ)れに塗れまくって、もう、どうしようもないというところまできている、ということなのだろう。

 しかしながら、だからといって、全てを諦めてしまっていい、というわけではない。そんなことであってはならない。

 さすがに、自分の力量の範囲を超えたことは、そう簡単にできそうにはないけれど、自分にできる範囲内の小さな声なら上げることができる。一人ひとりが、そうした小さな声を上げるだけで、ひょっとしたら、明るい未来に、多様性が共生できる未来に、繋がる、真っ当な心の連鎖の輪が、あたかも水面に起こる波紋のように、ユルリユルリと広がっていくかもしれない。(つづく)