ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.869

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と百

「ショウシャノ ショウシャニヨル ショウシャノタメノ」

 「古(イニシエ)より近代に至るまでにおいて、ひょっとしたら現代においても、マコトしやかに語られていることのそのほとんどは、勝者の勝者による勝者のための真実もどきなんじゃないか、って、思ったりするわけよ」、とAくん。

 「勝者の、勝者による、勝者のための、真実もどき、ですか」

 「そう。言い換えるなら、つまり、敗者には、真実を歴史の中に残す権利すら与えられていない、ということだ」

 敗者には、その権利がない、か~。

 なるほど。

 弱者、負け組、敗者にとっての真実が、強者、勝ち組、権力を握る勝者によって、葬り去られたり、捻(ネ)じ曲げられたり、捏(デッ)ち上げられたりする、ということか。

 たしかにその指摘、的を射ているように思えなくもない。

 「でも、なぜ、そんなことを、今、突然、思ったりしたのですか」

 するとAくん、「コレコレ」と呟きながら、カジュアルなバラエティ歴史書みたいな一冊を取り出してくる。

 「コレとコレ」

 ん?

 「コレとコレってさ~、真相は知らないよ、知らないけれど、明らかに、勝者と敗者との狭間で、露骨なまでに真実が捏じ曲げられたのでは、って、勘ぐりたくなってこないかい」

 これ、と、これ、と、見せられた2枚の絵は、歴史に興味があるとかないとかを軽く飛び越えてしまうぐらい、ほとんどの人が一度は見たことのある有名な2枚の絵であったのである。

 「源頼朝、と、義経、ですよね」

 「そう。ま、美意識は千差万別、人それぞれ。だから、一概にどうこう言うことはできないのだけれど、でも、それにしても、だ、ナニかが臭ってこないかい、そのお二人さんの描かれ方の違いから」

 再度、あらためてジックリと、その2枚の絵を見比べてみる。

 そう言われると、たしかに、忖度まみれの捏(ネツ)造の臭いが漂ってはくる、かな。

 「それゆえに、今ごろになって、この頼朝、ちょっと怪しいぞ、みたいなことになってきたりするわけ」

 「そ、そうなんですか」

 「らしい」

 「なんと・・・」

 「都合の悪い真実は、いつだって、強者によって闇から闇へ、って、ことなのかもな」

 コンな肖像画一つとってもソンなことになり得る、ということを説くAくんの、その、「勝者の勝者による勝者のための真実と捏造」理論。もちろん、現代の、この世の中にも当てはまりまくる、ということぐらいは、この私でも容易に察しがつく。(つづく)