ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.782

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と百と十三

「ヤヤコシクナヤマシイ? セイジ ト セイジカ ト」

 エラそうに、芸術とスポーツの自主自立について思いを巡らしてきたわけだけれど、よくよく考えてみると、自主自立から掛け離れたところにあるモノは、芸術やスポーツなのではなく、むしろ、権力やら血税の使い道やらを握る政治側にいるシモジモじゃないエラそうな人たちなのではないのか、という思いが、ズンズンと大きくなりつつある。

 たとえば、あの、目一杯上から目線の「自助」などというワード。も、政治側にいるエラそうな人たちから出てきたワードである。では、「自助」などと言い出した政治側にいるエラそうな人たち自身は、はたして、「自助」なのだろうか。甚だ、疑問である。

 あの方々には、給料以外に、ナンやカンやとアレだけの血税が支給されているのだ。そして、退職金にしても、シモジモである一般ピーポーの常識では考えられないほどの額なのである。

 と、言ってはみたものの、いわゆる「身を切る」などというものには、違和感がある。「身を切る」とは、単に「給料を下げる」、ということではないような気がするからだ。

 ある、ホントに真面目に取り組んでいる(ように見える)政治家が、全く余裕がない、どころか、ほとんど持ち出しだ、と、切実な表情で訴えていたことを思い出す。たしかに、スタッフたちの人件費だけでも相当なものだろう。その言葉に嘘偽りがないのなら、ひょっとすると、しまいには、真面目な成り手など、いなくなってしまうのではないだろうか。つまり、支給された血税の使い道が公私入り乱れてメチャクチャな、不真面目の代名詞みたいな方々ばかりが生き残っていくのでは、と、思えてならないのである。

 そんなことをアレコレ考えたりしているうちに、だんだんと、芸術よりもスポーツよりもケタ違いにウンと、政治やら政治家やらの方が、ヤヤこしく、ナヤましく、思えてくる。

 せめて、せめて、血税だから、いい加減に扱うのではなく、血税だから、こそ、意地でも、一切の使途不明金をなくす、ぐらいの、細(ササ)やかなる気概と、真面目さは、もってもらいたいものである。(つづく)