ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.721

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と六十二

「シュウキョウ ト タブー ト ハッショウドウ」①

 宗教というものに、アレやコレやとヤヤこしいものがベタベタとへばり付いて、いつのまにか、普段の会話において話題にすることすら難しくなって、久しい。ましてや、公教育の中でチラリとでも話題にしようものなら、ザワザワと、ザワザワと騒(ザワ)つき出すに違いない。つまり、それほど宗教は、扱い難くなりにけり、ということなのだ、とAくん。

 Aくんの指摘どおり、おそらくは、宗教がもつその根本の部分のために、というよりは、むしろ、ソコにへばり付いた諸々のモノのために、そうなってしまったのだろう、と、私も思う。

 ちなみに、私にとっての宗教、の、ソコには、そういったモノはナニもへばり付いてはいない。ただ、なんとなく二つの側面があるように思っている。

 まず、たとえば、神社で柏手(カシワデ)を打ったり、お地蔵さんに手を合わせたり、そんなことをしたらバチが当たるかも、と、ちょっと心配してみたり、という、日常の生活に溶け込んだ、細(ササ)やかなる「信仰」という側面。

 そして、もう一つ、は、広い意味での先人たちの英知(叡知)であり、知恵(智恵)であり、生きるための、生き抜くための、道標(ミチシルベ)である、という、そんな、どこまでも、どこまでも哲学的な側面だ。

 言うまでもなく、私の中でこの二つの側面は、力むことなく、穏やかに、絶妙なキョリ感を保っている。(つづく)