はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と四十四
「メザセ マナーパワーリッコク」①
罰則さえも伴う法的強制力のあるモノの遥か手前に、良識と倫理観に裏打ちされた「マナー」という人類の宝物のようなモノの存在がある。おそらくこの国は、あの時の、あの、権力の暴走の猛省として、このマナー、マナーパワーなるモノに対して、当然の如く他のどの国よりも圧倒的に期待が大きい、と、語り始めたAくんの、その、「むしろマナーパワー」理論に、ググッと引き込まれる私。
「そんな、国家レベルの大きなコトだけではなくて、もっと身近な、たとえば、マンションの管理規約みたいなものにしても、つまるところ結局は、住人のマナーという良識と倫理観に頼らざるを得ないわけだから」
つまり、コレもまた「人」、人の「意識」次第、というコトなのだろう。
「となると、この問題もまた、重要なのは教育、ということですか」
「そうなんだけどね、でもな~、時として教育も歪みがちだから」
教育も、歪みがち・・・とは。
「教育とはナニか。さらには、良識とは、倫理観とはナニか。コイツたちが、往々にして、ナニがナンだかワケがわからなくなったりするものだから、偏向教育なるものまで誕生したりするワケだ」
偏向教育なるものまで、誕生・・・とは。
「そんなことをアレやコレやと考えれば考えるほど、じゃ、罰則もチラつかせて法的強制力でやっちまえ~、その方が手っ取り早いぜ、みたいなことにどうしてもなってしまう」
「ソ、ソレってダメでしょ、ダメですよね」
「ダメなんだろうけれど、マナー、マナーパワー、なんてものは、所詮、ピーポー一人ひとりの心の有りよう次第。それゆえに、不安定で不確かで、脆(モロ)い」
だから、マナーパワーよりも法的強制パワーだろ、ということなのか。(つづく)