ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.703

はしご酒(Aくんのアトリエ) その百と四十四

「メザセ マナーパワーリッコク」①

 罰則さえも伴う法的強制力のあるモノの遥か手前に、良識と倫理観に裏打ちされた「マナー」という人類の宝物のようなモノの存在がある。おそらくこの国は、あの時の、あの、権力の暴走の猛省として、このマナー、マナーパワーなるモノに対して、当然の如く他のどの国よりも圧倒的に期待が大きい、と、語り始めたAくんの、その、「むしろマナーパワー」理論に、ググッと引き込まれる私。

 「そんな、国家レベルの大きなコトだけではなくて、もっと身近な、たとえば、マンションの管理規約みたいなものにしても、つまるところ結局は、住人のマナーという良識と倫理観に頼らざるを得ないわけだから」

 つまり、コレもまた「人」、人の「意識」次第、というコトなのだろう。

 「となると、この問題もまた、重要なのは教育、ということですか」

 「そうなんだけどね、でもな~、時として教育も歪みがちだから」

 教育も、歪みがち・・・とは。

 「教育とはナニか。さらには、良識とは、倫理観とはナニか。コイツたちが、往々にして、ナニがナンだかワケがわからなくなったりするものだから、偏向教育なるものまで誕生したりするワケだ」

 偏向教育なるものまで、誕生・・・とは。

 「そんなことをアレやコレやと考えれば考えるほど、じゃ、罰則もチラつかせて法的強制力でやっちまえ~、その方が手っ取り早いぜ、みたいなことにどうしてもなってしまう」

 「ソ、ソレってダメでしょ、ダメですよね」

 「ダメなんだろうけれど、マナー、マナーパワー、なんてものは、所詮、ピーポー一人ひとりの心の有りよう次第。それゆえに、不安定で不確かで、脆(モロ)い」

 だから、マナーパワーよりも法的強制パワーだろ、ということなのか。(つづく)