ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.612

はしご酒(Aくんのアトリエ) その五十三

「サイダイタスウ ノ サイダイコウフク」

 なんとなく授業を受けて、なんとなく「あれ?」っと思いはしたものの、そのまま放ったらかしにして、なんとなく現在に至る、という、そんな感じなんだよな~、と、なんとなく学生時代のあの頃を振り返る、Aくん。

 海のモノとも山のモノともつかないようなガキんちょが、授業で習ったとたんに、なるほどな~、そういうことか~、などと納得することなんて、よほどの神童でもない限り、そうそうあることではない、と、私も思う。

 それぐらい、巷の少年少女は、気持ち良すぎるほどナンとなく生きているのである。でも、それでいい。それこそが、間違いなく少年少女たちの醍醐味だと思う。仮に、少年少女たちが、ナンらかのことで、ナンとなく生きていくことが困難になってしまったとしたら、そうした醍醐味を味わえなくなってしまったとしたら、それは、トンでもないほどの不幸だし、大人たちの責任も、滅法重いとさえ思う。

 などと、ボンヤリと思ったりしていると、Aくんが、「最大多数の最大幸福って、ナンだと思う?」、と。

 中学校でナンとなく学んでから今まで、ずっとナンとなく抱き続けてきた疑問であるという。

 「最大多数の最大幸福、ですか」

 「そう、最大多数の最大幸福」

 情けない話だが、試験に出るから覚えておけ、などと脅されて、意味なんてわからないままただナンとなく、ベンサムの最大多数の最大幸福、と、頭の中の片隅に放り込んであるだけだ。

 「おそらく、より多くの人が幸せであることが大切、というようなことだと思いますが」、と、当たり障りのない返答で切り抜けようとする、私。

 するとAくん、でもね、と、その奥のそのまた奥のあたりで、長きにわたってモヤモヤっと燻(クスブ)り続けてきた疑問について、ややに熱く語り出す。  

 「そんな、普通なら誰だってそう考えるであろう常識的な解釈から、いつのまにかズルズルと逸脱して、しまいには、より多くの人が幸せであるのなら、より多くの人が幸せであるその背後で、その幸せから漏れてしまった人たちのことなんて、べつに振り返らなくてもいいだろう、いかなることにも犠牲はつきものだろう、みたいな、そんなことになってきているような気がして、ならないんだよな~」

 ん~、ヤヤこしい、ヤヤこしくなってきた。

 けれど、そうしたヤヤこしさをワサワサと踏み越えて、Aくんが抱き続けてきたその疑問は、私たちに、クールに語り掛けてくるのである。 

 

 ひょっとしたら、最大多数の最大幸福、の、その裏で、最小少数の最小不幸、が、捨て置かれ、世間から、忘れ去られようとしているのかもしれないよ。

 

(つづく)