ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.554

はしご酒(4軒目) その百と百と九十五

「フヨウフキュウ ノ ブンカテキ」

 トンでもないことが起こってしまったときの、文化的なモノの有りようが、その国の文化的なモノと、それを取り巻くモノ、の、そのパワーを、如実に表しているような気がする、とAくん。

 「文化的なモノがもつ、パワー、ですか」、と私。

 「そう。古今東西、様々なトンでもないコトが、モノが、ヒトが、あの手この手で文化的なモノを、亡きモノにしようとしてきたわけだけれど、そうした危機さえも乗り越えて、この星には、今もなお、数多の光り輝き続ける文化的なモノがある。このことは、偏(ヒトエ)に、ソレを支えてきた人たちの熱き魂が、ソコにあったからこそ、だと、僕は思っている」、とAくん。

 文化的なモノ。

 場末のスナックやらライブハウス、あるいは小さな芝居小屋やら神社の能舞台やら、といったアレやコレやの空間の中で、個人やら地域やら民族やらナンやらカンやらのアイデンティティやらソウルやらが注ぎ込まれて、育まれ、熟成されてきた、多種多様なキラキラとした文化的なモノ。そうしたモノがあってこその人間であり、人間社会である、と、私も思っている。

 しかしながら、この国の、権力を握るシモジモじゃないエライ人たちの文化的なモノに対する意識は、滅法、軽いように思える。

 経済という一側面から、文化的なモノを捉え続けてきたことによる悲劇的な副作用ではないか、と、Aくんは分析する。

 否定したいところだけれど、不幸にもAくんのその分析、それほど的が外れているとは思えない。

 この嵐が過ぎ去ったあと、必ず、芸術は、我々に勇気と希望を与えてくれる。だからこそ、ナニがナンでも、芸術は守る!、みたいなことを、この国ではないある国の、シモジモじゃないエライ人が、力強く宣っていたことを思い出す。

 文化的なモノを、芸術を、ヤヤもすると、「不要不急」なモノと捉えがちなこの国のエライ人たちと、ナニがナンでも、「守る!」べきモノと捉えるこの国ではないエライ人たちとの、この、意識の、考え方の、違いは一体、どこからやって来るのだろう。(つづく)