ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.507

はしご酒(4軒目) その百と百と四十八

「ゲイジュツ カクサ サベツ!」

 思えばAくんは、ヒトではなくコトだろ、と、何年も前から訴え続けている。そうでなければ、この国も、この星も、場合によっては、コトによっては、大切な文化を、芸術を、失うことにもなりかねない、と、警鐘を鳴らす。

 おそらく、巷を賑わすアレやらコレやらがらみの、ソコからの、その話なのだろう。私自身も、一度、ジックリと腰を据えて、自分なりに考えてみなければ、と、思ってはいたものの、尻込みしたまま、そのままズルズルと、今日(コンニチ)に至っている。

 たとえば、あんなことをしでかした方が出演されている映画って、どうなんでしょう、みたいな、そんな感じで、お蔵入り、などということは、とくにこのところ、この国では、よくある話である。ひょっとすると、ココでもあの「美徳」が、ニンマリとほくそ笑みながら、足を引っ張ってくれているのかもしれない、などと、思ったりしていると、突然、「僕は、一つの、芸術格差差別だと思っている」、とAくん。

 「芸術、格差、差別、ですか」、と私。

 「そう。僕の、好きなアーティストの一人に、あの、バスキア、が、いるんだけれど、じゃ、彼の作品、可能なら、全て没収してお蔵入り、と、すべきなのか、と、問いたいわけよ、僕は」

 バスキア、たしか、ヘロイン中毒かナニかで亡くなった、ように記憶する。

 「そんなことは、すべきじゃないし、誰も望んでいない、と、思います。彼の作品は、一つの独立した芸術作品として、すでに、もう彼の手から離れているわけですから」

 「そうだろ、そうなんだよ、普通は。芸術作品は、芸術作品として独立、自立、している。ヒトではなくコト、この場合は、モノかな、ヒトから離れた光輝くモノとして、ソコに存在する。僕は思うんだけれど、この国の、映像作品、とくに映画は、悲しいかな、未だ、芸術作品として、認知されていないのかもしれないな。そういう意味での、芸術、格差、差別」

 作品と同じぐらい、もしくは、それ以上に、役者もまた、大いなる発信力、影響力、を、もっている場合があるだけに、かなり難易度の高い問題であるとは思うけれど、このコトだけは、きっと、間違いなく、真理だと、私は思っている。

 作品に罪はない!

(つづく)