ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.203

はしご酒(3軒目) その三十二

「ココロアル オトナ ハ ケツダンシキレナイ」

 たとえば、政治を司るシモジモじゃないエライ人たち、地球規模で、「強気の決断力」賛美の花盛りである。

 右か左か、上か下か、ソッチかコッチか、迅速に白黒つけることが、つけることができるその力が、躊躇なく、随分と、もてはやされている。

 いつのまにか(ひょっとすると、ずっと以前から、そうなのかもしれないけれど)地球上のそこかしこが、そんな「剛(ゴウ)」の時代に突入してしまっている、ように見える。

 だけれども・・・。

 私は、心ある大人は、そう簡単には決断などできない、しきれない、と思っている。なぜならば、(余程のことを除く)この世のほとんどが、結局のところ、なにが正しくて、正しくないのか、なんて、まず、わからない、と、思うからでる。

 それでも決断できる、ということは、おそらく、正しいか正しくないか、という基準での決断なのではなく、問題点はいろいろあるけれど(あえてその部分は見ないようにして、もしくは、黙っておくことにして)、良い点もある、旨みもある、賛同者も多い、今後の選挙にも都合が良い、もしくは、背に腹はかえられぬ、といった、そのあたりのレベルの、決断なのであろう、と、私は、いたって懐疑的だ。

 そして、誰も、その決断に対して、責任などとらない。誰も、その決断によって、極めて辛い窮地に立たされたシモジモであるエラクナイ一般ピーポーたちの気持ちなど、気にも留めない。

 少々、ネガティブすぎるかとも思いはするけれど、私は、どうしても、その負の思いを払拭しきれないでいる。

 とにもかくにも、私たちは、そんな時代に、生きているのである。(つづく)