はしご酒(2軒目) その五十三
「アラミタマ ノ ジダイ」
怒れる仏は煩悩を焼き尽くす、荒御魂(アラミタマ)。
そう、荒御魂。
荒御魂とは、荒ぶる神霊のことらしく、噂以上に、やることなすこと、天上人とは思えないほどの激しさ。で、なんだかちょっと、恐ろしくなるぐらいである。
で、あるのだけれど、そうした畏(オソ)れこそが、そうした畏れに心震えることこそが、この、心、大いに乱れる現代社会において、この上もなく大切なモノと私が信じて疑わない「畏怖(イフ)の念」なのである。
そう、畏怖の念。
にもかかわらず、この「畏怖の念」、ナゼか、どうも、ドコかに置き忘れてしまいがちなのだ。
ナゼ、置き忘れてしまいがちなのか。
たとえば、科学で、解明できないモノなど信用などできない?
あるいは、いちいちそのようなモノを気にしていたら、畏れていたら、人類は、進歩なんてできやしない?
おそらくは、そんな感じで、ジワジワと、ドコかに置き忘れてしまいつつあるのかもしれない、な。
とはいうものの、(たまに、ではあるものの)私のお楽しみである早朝テクテク散歩や夕方プラプラ徘徊のおりに、名もなきお地蔵さんに、年配の方々に交じって手を合わす若者たちの姿を見かけることもまた、増えてきたような気がしている。
先日も、手を合わす若いアベック(とは言わず、カップルなのだそうだ。フランス語の「Avec(アベック)」が、この国のその後のアメリカナイズによって絶滅危惧種に追いやられてしまった、と、いうことなのだろう。残念だ)と遭遇した。なんとなくホッコリとしつつもピンと張り詰めたような空気が、ソコに感じられて、まだまだ捨てたもんじゃないな、などと、思ったりもして、早朝から、ちょっとイイ気分であった。
ひょっとすると、皆が皆、サヨナラ畏怖の念、というわけではないのかもしれない。
ただ、とくに、この国を、この星を、オキテ破りの力付くで、でも、リードしていこうとしているシモジモじゃないエライ人たち、エラそうな人たち、に、限って、「畏怖の念」というモノをドコかに置き忘れ、捨て去り、忘れ去ろうとしているような気がしてならない。
そう。ミスリードしがちな権力者は、畏怖の念を忘れ去ろうと、しがち。な、わけだ。
そんな権力者たちの空恐ろしい煩悩に、まみれまくった世の中だからこそ、いよいよ、今、煩悩を焼き尽くす怒れる荒御魂が降臨しそうな、予感。
時代は、まさに、荒御霊の、時代。
気を付けて暮らせよ、権力者諸君。
(つづく)