ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.150

はしご酒(2軒目) その五十二

「シタタカ ノ ジダイ」

 強(シタタ)か。

 時折、私の周囲で耳にするこのコトバに、「誉めコトバ」感は、あまりない。ソコには、「計算高さ」とか「ズルさ」とか「自分本意」とか、と、いった、そんな負のイメージばかりがへばり付いている印象だ。漢字は、同じ「強」であるのに、そのあとが「い」の場合と「か」の場合では印象が随分と違う。

 そう、正統派の「強い」に対する異端児的な「強か」。

 しかしながら、ナゼか、そんな異端児的な「強か」に、「強い」にはないナニかを感じてしまう。

 ナゼ、そんなコトを感じてしまうのか。

 それは、「強い」の代名詞のように見えていた知人たちが、知人たちのココロが、ある日、突然、ポキッと、ということが、ごく身近なところで起こったりするからだ。しかも、ソレは、それほど珍しいコトではなかったりする。

 ひょっとすると、私たちは、いわゆる正攻法の、正統派の、「強い」を求める際においても、周囲の「目」というものを、無意識のうちに気にしてしまっているのではないだろうか。そのような、周囲から認められた正統派の「強さ」に、はたして、本当の強さがあるのかどうか。かなり疑わしい。

 では、本当の強さとは、ナンだ。

 そこかしこで不条理。あちらこちらが怪しい。どこもかしこに不信。みたいな、こんな世の中で、時代で、あるからこそ、そうした世間的に評判のよい血統書付きの正道である「強い」ではなく、むしろ、どうも評判がよろしくない悪名高き邪道である「強か」を、この際、胸を張って目指すべきではないのか。いや、マジで目指すべきだと、かなり本気で、私は、思い始めている。

 そう、強か。

 こんな時代、強かでなければ生きていけない。

 幾度となく鑑賞した、ビクター・フレミング監督の『風と共に去りぬ』。その熱き名作に登場するケイティ・スカーレット・オハラ(ビビアン・リー)の生き様を見るにつけ、その思いは、更に一層、強固なモノとなる。

 そう。時代は、まさに、「強かの時代」なのである。

(つづく)