ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.119

はしご酒(2軒目) その二十一

「アシタ ノ ダイオージョー」

 1970年前後に週刊少年マガジンに連載されていた『あしたのジョー』。主人公である矢吹丈のその生い立ちから、天に召されるかのようなクールなラストシーンに至るまでのその濃厚さは、たとえば、そのあたりのコッテリ系豚骨ラーメンのソレを、遥かに凌ぐ。そして、そんな『あしたのジョー』は、そんなソレ系のラーメンと同じように、もう若くはない私の胃には、想像以上にドスンと重い。のだけれど、しかしながら、たとえば己の命さえも犠牲にできる、いや、犠牲などという意識さえ微塵もない、という、その魂の一途さ、強靭さ、崇高さ、には、(もちろん、ソレなりに危険性を感じはするものの)さすがに、素直に畏れ入る。

 すると、「ちょっといただいてもええですか~」、と、ニンマリしながら暴れん坊酒をキュッと口に含んだOくん、さらに一層怪しくニンマリしつつ、「あしたのジョーは、まさに~、あしたのダイオ~ジョ~、で、おまんな~」、と。

 あしたのジョーは、あしたの大往生(ダイオウジョウ)?

 あまりのわかりにくさに、またまたまたまた~、と、条件反射のように呆れ果てる私。ではあったのだけれど、ソコをグッとこらえて、あらためて冷静に考えてみると、たしかに、『あしたのジョー』は、正真正銘、筋金入りの『あしたの大往生』であるのではないか、と、ズンズンと思えてくるから不思議だ。

 あしたの大往生。

 大往生の真なる王道。

 おそらく、大往生の真なる王道とは、単に、ソレなりの年齢に達し、痛みも苦しみもなく穏やかに天に召されていく、ような、そんなユルリとしたモノではない。はずである。

 つまり、まさに、あの時の、あの、燃え尽き灰になった矢吹丈のように、ソコに、荒ぶる魂の超完全燃焼があって、はじめて、大往生の真なる王道。というコトなのだろうな、きっと。

 そう、荒ぶる魂の、超、完全燃焼。

 誰しもができるコトとは、到底、思えないが、目指したい、ある意味憧れる、そんな一つの人生の終焉の有りようであるとは、思う。(つづく)