ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.111

はしご酒(2軒目) その十三

「メザメヨ キヅキングコング

  「『気付き』だと思うのです」

 授業に執念を燃やすAくんは、学校の先生のキモの部分の一つとして、「気付き」の大切さをあげていた。「気付けるチカラ」なき学校の先生は、申し訳ないけれど、先生としては致命的、と、言わざるを得ない。と、(いつものことながら)手厳しい。

 「気付けるチカラ。は、大切だと」

 「気付こうとしない」と「気付けない」とは根本的に違う、とAくん。たしかに、両者とも、いただけないことにかわりはないのだけれど、前者は、ほぼ気付いているのだが、本人の強い意思によって「気付こうとしない」わけで、「気付きたい」のに「気付けない」後者とは随分とニュアンスが異なる。

 そんな前者のその強い意思。もちろん、実に困りものの強い意思ではある。ひょっとしたら、強い意思のように見せかけているだけで、実は、単なる「逃げ」なのかもしれない。しかし、仮にそうであったとしても、ソレも含めて本人の考え、思い、なのだろうから、仕方がないようにも思える。なぜなら、自己防衛本能としての「逃げ」は、時と場合によっては必要であると思うからである。ほとんどの人間は、ナニもかもを受け止められるほど強くはない。

 問題は、やはり、後者であろうと思う。

 「気付きたいのに気付けない」

 どの角度から考えても、気付きたくても気付けないことが齎(モタラ)すその悲劇感は、前者がもつ問題点よりも相当に深刻である。

 「学力格差に始まって、イジメやら、暴力やら、虐待やら、理不尽なバッシングやら、といった、実に厄介な『やらやらやら』によって、泥沼の中でモガく子どもたちの悲痛なSOSの叫びに気付けないことは、やはり、悲劇だと思います」

 「せやな。気付けたからいうても、たいしたことはでけへんかもしれへんけど、なんもでけへんってわけやない。やれることはやれるはずやさかいな。せやから、やっぱり、気付けると気付きかれへんとでは雲泥の差、月とスッポンやっちゅうことやな」、とOくん。

 その通りだ。

 全く無力というわけではない。ナニか、きっとできるコトがある。だから、だからこそ、気付けるチカラは必要なのである。

 あの、怒れるアクション界の影の王者「タイミングコング」は、姑息で怪しいタイミングでアクションを起こす食わせ者たちを、それ以上の絶妙なタイミングで懲らしめるコング系のスーパーヒーローである。が、その親戚筋に、「気付き」に命をかける、もう一人(一匹?)のコング系スーパーヒーローがいる。ソレが、「キヅキングコング」。

 そう、キヅキングコング

 気を溜めに溜めて、念じに念じれば、必ずや、熱き「気付き」のプロフェッショナル、キヅキングコングが、あなたのココロの中で、パッカ~ンと目を覚ます、はずである。

 気を溜めよう。

 念じよう。

 さすれば、きっと。

(つづく)