はしご酒(2軒目) その四
「ラクゴ ノ ゴー ゴー ゴー!」②
だから、なにか「事件」をしでかしてしまった、としても、それ相応の罪の償いさえすれば、噺家やら芸人やらから足を洗うなんてことをする必要はない、はずである。もともと「箸にも棒にもかからない」という立ち位置なのだから。
「せやな~、噺家さんと、政治家やら、警察官やら、お医者さんやら、学校の先生やら、とは、根本的にちゃうわな~」、とOくん。
しかしながら、悲しいかな、そうは問屋が卸さない、のが、この社会なのである。たいていは、結構な勢いで批判され、糾弾され、復帰は限りなく絶望的になってしまう。芸で生きる道への復帰を断たれた彼ら、彼女らは、一体どうなってしまうのだろう。
でも、なぜ、そんなことになってしまったのか、ソコのところは非常に興味深い。
するとOくん、「噺家さんや芸人さんの世界が、もう、箸にも棒にもかからない人たちの世界なんやない、んと、ちゃうんかな~。つまりやな、いわゆる社会的地位ってのが、向上したっちゅうわけや」、と。
ん~、社会的地位の、向上、か~。
そうなのかもしれないけれど、その、社会的地位の向上という言い方、考え方、自体、随分と上から目線で差別的、な、感じがしてならないが。
トにもカクにもソンなコンなで、T V でコメンテーターとして発言したりするようにもなってきたのかもしれないな。
しかし、落語家風情が(もしくは芸人風情が)偉そうに、などといった批判を耳にするのもまた事実。一般ピーポー(とは限らないな)の潜在意識の奥深くに、まだまだ「箸にも棒にもかからない」が、モゾモゾと生息している、からなのかもしれない。おそらく、とりあえず社会的地位を上げておいて馬鹿にする、という、二階建て構造になっているのだろう。
実にナンともカンともな二階建て構造である。
私は、私としては、箸にも棒にもかからない、破天荒で、豪放磊楽(ゴウホウライラク)で、ちょっと危うい、そんな噺家やら芸人やらが、「てやんで~べらぼうめ~」と自由闊達に持論を展開する、そして、周囲は「またまたまた~」と呆れ果てる、あるいは、「さすがに視点が斬新ですな~」と目からウロコ、みたいな、そんな感じなら、好ましいと思うし、番組としての存在感も存在意義も、あると思う。少なくとも、偏りまくった政治家上がりのエセコメンテーターよりは、ウンとイイ。
しかし、噺家や芸人たちにソレが許されないのなら、自由に喋ることが許されないのなら、スポンサーやら世論やら国やらの意向に沿ったコメントしか許されないのなら、ワザワザ彼ら、彼女らを、(「世相を斬る」的な)あの手のT V 番組に起用しなくてもいいのではないだろうか、と思ってしまうのだけれど、とりあえずの視聴率稼ぎ、なのかな~、どうだろう。残念ながら、ソコのところは私にはわからない。
そんな、私の、「どんなコトも、箸にも棒にもかからない噺家のパワーの源」理論を聞き終えたOくん、突然、「らくごのご、ならぬ、らくごのGo Go Go!やな~」と、宣いながらの会心の表情。
もちろん、意味不明。
どころか、なぜにゆえに会心の表情なのかさえ、サッパリだ。
Aくん直伝の、キレのある唐突感とワケのわからなさは、ホントにお見事である。
ん~、あまりよろしくないけれど、おあとがよろしいようで。
(つづく)