ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.97

はしご酒(2軒目) その四

ラクゴ ノ ゴー ゴー ゴー!」①

 Aくんにとってのハードロックに匹敵するモノがOくんにもある、ということを思い出した。そうそう、それが「落語」なのである。

 Oosacan (大阪人)なOくんだけに、もちろん上方落語、かと思いきや、次から次に彼の口から飛び出てくる落語家(「噺家」といったほうがいいかな)の名は、古今亭志ん生三遊亭圓生、などの、すでに神さまになってしまっている重鎮から、遅れ馳せながら神さまになった柳家小三治、神さまよりは閻魔さまあたりになりたかったであろう三遊亭円丈、癒しの瀧川鯉昇、に、昔昔亭桃太郎桃月庵白酒林家彦いち、台所おさん、蝶花楼桃花、と、新旧、古典、創作、入り乱れた江戸落語のオンパレード。で、あったことには、少々驚かされた。もちろん、同じ轍は踏まない。先ほどの「ぬた」事件のように、またまた、私の中の、その、固定され気味の観念を、見事なまでに鋭く指摘され、「大阪人やから上方落語っていうんは、どうなんやろう」などとナニがナンでも言われないように、そのような素振りは一切見せていない。

 そう、脱、固定観念

 忘れてはいけない。

 トにもカクにもソンなコンなの噺家たちであるのだけれど、私は、一つ、不思議に思っていることがある。

 ある噺家が、アンなコンなのちょっとした事件たちを、おもわずしでかしてしまった、いわゆる芸能人と呼ばれる人たちに対して、こんなコトを宣っていたのである。

 「そもそも、箸にも棒にもかからないような、どうしようもないのが、噺家でも、芸人でも、やってみようか~、みたいな、そんな感じだったんだから」

 なかなか過激な言葉ではあるけれども、よくよく考えてみると、ソレって、噺家や、芸人に対する中傷というよりは、むしろ、かなりの「誉めコトバ」なのではないか、という気がしてくる、から、不思議だ。

 さすがに、トンでもない大事件をしでかしてしまったとなると、そうもいかないかもしれないが、ソコソコの事件なら、ソレもまた、「箸にも棒にもかからない」ゆえの面白さ、凄み、超越感、が、ウリの、噺家の、芸人の、エナジーに、パワーの源に、なるのではないかとさえ、私は、コッソリと思っているのである。(つづく)