止め肴 その七
「アンシン アンゼン フシゼン」
「アンシン」と「アンゼン」、ワンセットにしてしまうと、ちょっと不自然、違和感がある、とAくん。いつものコトながら、唐突なAくんの問題提起に困惑しながらも、丁重にその真意を尋ねてみると・・・。
「主語が違うんじゃないか」
そんな言葉が返ってきた。
「たとえば学校。アンシンの主語、主体、動作主はコドモ、で、アンゼンの主語はガッコウカンケイシャ、で、あるような気がする」、と。
私なりに考えてみた。
子どもたちが安心して登校できる、生活を送れる、そんな学校を目指して、学校関係者が学校の安全確保のために尽力する。コレが正しい。ワンセットにしてしまうから、学校現場が工事現場のような、そんな感じになってしまう。子どもたちが中心の学校現場と、全員が大人たちの世界である工事現場とは、根本的に違う。
すると、さらにAくん、「子どもたちのアンシンのために、大人たちが、そのアンゼンを意地でもつくり上げる。このコトを忘れたら、きっと一生後悔してしまうような悲劇が起こる、に、ちがいない」、と、一気に捲し立てた。
たしかに、そうした「つくり上げるのだ」という力強い意地みたいなモノが、残念ながら見受けられない「シモジモじゃないエライ人たち」の、ナニかトンでもないコトが起こらなければ「ワカラナイ」、という想像力の欠落、欠如が、もたらす悲劇は、あまりにも辛く、恐ろしいほど罪深い。(つづく)