箸休め
「アホミタイニ シャシンバカリトッテ」②
中学3年生の夏、私は、兄とともに信州の、とある農家に泊まり込み、受験勉強に邁進していた。と言いたいところだけれど、あまりにも魅力的な山間部の農村であったので、勉強の合間を無理やりつくりまくっては、ヤレお姉さんたちと川遊び、ヤレお兄さんたちと山歩き、ヤレみんなで高級虫取り、などなどと、見事なまでに日々楽しんでいたのである。何十年も前の悪業ではあるけれど、未だに、出資者であった両親には申し訳なく思っている。
そんなある日の夜、気分転換も必要だ、ということで、(言うまでもなく、気分転換など必要ないぐらい、楽しい日々を送っていたわけだけれど)みんなで夜の散歩に出掛けたのである。
暗い山道をワ~ワ~言いながら歩いていくと、ちょっとひらけたプチ田園みたいなところに辿り着く。
すると、なんとソコは、まさに、まさに奇跡の地であったのである。
大地には、無数の蛍蛍蛍蛍蛍。
夜空にも、無数の星星星星星。
その星たちが、漆黒の夜空に大河までつくっている。
大地も夜空も、信じられない数の光光光光光。
そんな光たちに埋め尽くされた、真夏の夜の光景であったわけだ。
そのとき、はじめて、なぜ「光景」という漢字に「光」を使っているのか、が、わかったような気まで、したのである。
あの日から随分と経つけれど、あの奇跡を越えるような奇跡に、その後、出会ってはいない。
しかし、あまりにも時間が経ち過ぎたものだから、同時に、こういうふうにも思い始めている。
あの時のあの奇跡の光景は、本当に、ソコに、あったのだろうか。ただ単に、私の中でドンドンと、さらなる奇跡に変貌していっただけなのではないのか、と。
でも、それでもいい。それでもいいから、永遠に大切にしたい、育んでいきたい、と、強く思う、そんな、私の、真夏の夜の夢のような奇跡の思い出なのである。
う~ん、・・・ひょっとしたら、あの夜、「写真を撮る」ということをしなかったから、こそ、そんないい塩梅の思い出として、私の中に住み着いてくれているのかもしれないな。
そう、その夜の私は、今ほど「写真を撮る」ことが、お手軽ではなかったということもあったとは思うけれど、写真を撮ろう、なんて、微塵も思わなかったのである。
Aくんが宣うように、たしかに、「アホみたいに写真ばかり撮って」いる場合ではない、のかもしれない。
私の脳ミソの中にある内蔵カメラも、なかなか結構いい感じなのである。(つづく)