止め肴 その四
「クンサ~ン モンダイ」
午前中の授業だけで帰宅することができた土曜日、小学生の私には密かな楽しみがあった。ソレが、『お笑い花月劇場』(朝日放送)。中でも岡八郎と船場太郎の人気は、頭一つ、二つ、抜けていたような気がする。
その岡八郎、奥目の八ちゃんの、泣く子も黙る、いや、笑う、必殺のギャグが、コレ。
「くっさ~」
毎回毎回、わかっちゃいるけど、どうしても、笑けてくる、笑ってしまう、という、まさに「必殺」のギャグであったのだ。
そんな奥目の八ちゃんの「くっさ~」は、国宝クラスの必殺ギャグで素晴らしかったのだけれど、巷の「クンサ~ン」問題は、どうもワケがわからない。
そう、「くっさ~」ならぬ、クンとサンの「クンサ~ン」問題。
少し前、たまたま、あるTV番組で、「そういうことは私にお任せください」みたいなオーラを全身からプンプンと放出しつつ、某評論家が、その「クンサ~ン問題」を自信満々に解説していたのを目にする。しかしながら、自信満々のわりにはナンの解説にもなっていないようにしか思えず、一層、ワケがわからなくなってしまう。
クンとサンのクンサ~ン問題は、思いの外、ヤヤこしいのである。
たとえば、Aくんは、上司が部下に対して言う「〇〇くん」の「クン」に、否定的だ。
「〇〇くん、元気にしてるかね~」
たしかに、なんとなくエラそうだ。
しかし、子どもたちのコミュニケーションの中での「クン」「サン」は、そういったモノとは全く別モノだという。たとえば、女子が、男子に対して「〇〇く~ん」と呼んだところで、ドコが偉そうなのか。ドコに差別の臭いが漂っているというのか。と、Aくん、その話題になると、いつだって声が大きくなる。
たしかに、微塵もエラそうでない。
エラそうではないけれど、ひょっとすると、そもそも、女子が、とか、男子が、とか、と、いったコトそのものに、デリケートで厄介な問題が潜んでいるのかもしれない。と、なると、ますますワケがわからない、な。
トにもカクにも、この、ナゾがナゾ呼ぶナゾナゾ「クンサ~ン」問題ワールド、そもそもが大人目線。大人は、余程の事態でない限り、子どもたちの世界にドスンドスンと踏み込むべきではないし、トやカク言うべきでもない。と、いうのが、Aくんの持論。だいたい、そんな風にドスンドスンと踏み込んでくるような大人に限って、トンでもない余程の事態が起こってしまったような時には二の足を踏むことが多かったりするのだ。
ナンともカンとも、大人目線はドップリとズルく、大人の事情マミレなのである。
ん~。ソコまで、「クン」とか「サン」とかといったモノに拘(コダワ)るのなら、拘りたいのなら、この際、男女問わず大人も子どもも上司も部下も、オール「チャン」でいけばどうだろう。
そう、チャン。チャンで統一。
某国民営放送局のニュースあたりで、「首相の〇〇ちゃんが国会で」なんてことになれば、ナンとなく漂う政治の世界の胡散(ウサン)臭さも払拭できて、今よりは楽しくなってくるかもしれない。(つづく)