ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.42

箸休め

「バッシング バッシング バッシング」

 批判的精神。

 批判的精神は、大切。

 ちょっとでも「怪しいな」と思ったら、まず、疑ってみる。自分の考えと異なるピーポーたちの意見にも耳を傾けて、ジックリと考える。トコトン考えてみる。それでも納得がいかないときは、「モノ申す!」。でも、ソコで終わってはいけない。モノ申したからには、責任をもって、さらに深く考えてみる。そして、自分に非があると思ったら、潔く認める。場合によっては謝罪も必要だろう。けれども、だからといって自分の中の批判的精神をなくしてはならない。どうしても納得できないコトに、自分自身がドウ向き合い、ドウ考え、ドウ行動していくか、生きていくか、が、肝(キモ)。その肝を失うことは自分が自分でなくなることだ。

 そう、自分が自分であること、自分自身であり続けることに意味がある。

 ナニがナンでも自分自身で考え、ナニがナンでも自分自身が納得のいく人生を歩む。ハードルは高いが、ソレを目指す。

 コレが、Aくんの基本的なモノの考え方、考え方の、スタンス。

 「モノ申す」が苦手で、ソレは「ムリかな~」な私であるだけに、そうしたAくんの姿勢は憧れでもある。

 ただ、この頃、ナンとなく、もう一つ、妙に引っ掛かっている言葉がある。

 ソレが、巷でよく耳にする「バッシング」という言葉。Aくんが言うところの「批判的精神」とは、ナニか違う臭いがする。ドコか手触りも違う。一体全体、「バッシング」とはナンなのか。批判的精神とバッシングとの違いは、ドコにあるのか。

 この、バッシングに潜むナゾのアレやらコレやらを、今宵のひとり酒のアテにして、私なりに、ソレなりに、ジックリと考えてみよう。

 まず、「批判的精神」。

 最も大切なのは、Aくんが言うように「まず疑ってみる」ことだと、私も思う。「モノ申す」が苦手であるならば、ソコはパスしても一向に構わない。納得できないコトに対して「まず、疑問に思う」、そして、掘り下げる、追求する、という、その気持ちが、その姿勢が、大切なのである。(あの、キング牧師には、「甘い!」、と、お叱りを受けてしまうかもしれないけれど)

 一方、「バッシング」はどうだろう。

 Aくんも私も、この言葉をほとんど使わない。調べてみると、「bash」には、「ブン殴る」、「イヤというほど叩く」、などという意味があるという。「bashing」は、その現在分詞形。となると、「バッシング」の場合、コチラ側の気持ちとか、考え方とか、生き方とか、といったことは、この際ドウでもよくて、ただ、相手を「叩く」ことのみに意味がある、ということになる、の、かも。おそらく、私がナンとなく感じているそうした臭いや手触りの違いは、その辺りから滲み出てくるのだろう。

 そう、「叩く」こと自体が目的になる。

 ソレは、暴力の肯定に他ならない。身近な暴力は、次から次へと新たな暴力を呼び、やがて、間違いなく、その遥か彼方にあるであろう国家間の「武力」の行使、に、まで、繋がってしまうに違いない。

 少し前、久しぶりに見た矢口史靖監督の名作『スウィングガールズ』。そのラストでパワフルに演奏されたブラスパフォーマンス、「♪シング シング シング」。を、聴いているうちに、なんだか、突然、モヤモヤ~っと私の中に沸き起こってきた、「バッシング バッシング バッシング」。

 全然、関係ないけれど。

(つづく)