箸休め
「バッシング バッシング バッシング」
批判的精神は大切。
ちょっとでも「怪しいな」と思ったら、まず疑ってみる。他のピーポーたちの意見にも耳を傾けて、ジックリと考える。トコトン考えてみる。それでも納得ができないときは、「モノ申す!」。でも、ソコで終わってはいけない。さらに深く考えてみる。そして、自分に非があると思ったら、潔く認める。けれども、だからといって自分の中の批判的精神をなくしてはいけない。自分自身がドウ考え、ドウ生きていくか、ソコが肝(キモ)。自分自身で考え、自分自身が納得できる人生を歩む。ハードルは高いが、ソレを目指す。ソウでなければ意味がない。ストレスだって溜まる。
コレが、Aくんの基本的なモノの考え方のスタンス。
「モノ申す」、が、ちょっと苦手で、ソレは「ムリかな~」な私であるだけに、そうしたAくんの姿勢は大好きである。
ただ、ココで一つ、ナンとなく引っ掛かっているコトがある。
巷でよく耳にする「バッシング」という言葉。Aくんが言うところの「批判的精神」とは、ナニか違う臭いがする。ドコか手触りも違う。一体全体、「バッシング」とはナンなのか。批判的精神とバッシングとの違いは、ドコにあるのか。
まず、「批判的精神」。
最も大切なのは、Aくんが言うように「まず疑ってみる」ことだと、私も思う。「モノ申す」が苦手であるならば、そこはパスしても一向に構わない。「まず、疑問に思う」、というその気持ちが大切なのである。(キング牧師には叱られてしまうかもしれないけれど)
一方、「バッシング」はどうだろう。
Aくんも私も、この言葉をほとんど使わない。調べてみると、「bash」には、「ブン殴る」、「イヤというほど叩く」、などという意味があるという。「bashing」は、その現在分詞形。となると、「バッシング」の場合、コチラ側の気持ちとか、考え方とか、生き方とか、といったことは、この際ドウでもよくて、ただ、相手を「叩く」ことのみに意味がある、ということになる、のだろうか。臭いや手触りの違いは、その辺りからくるモノなのかもしれない。
「叩く」こと自体が目的になってしまうことの危うさは、その遥か彼方にあるかもしれない国家間の「武力」というものの行使、にまで、やがて繋がってしまうのではないか、という危惧さえ、私の中に生み落とす。実に恐ろしいことだ。
少し前、久しぶりに見た矢口史靖監督の名作『スウィングガールズ』。そのラストでパワフルに演奏されたブラスパフォーマンス、「♪シング シング シング」。を、聴いているうちに、なんだか、突然、モヤモヤ~っと私の中に沸き起こってきた、「バッシング バッシング バッシング」。
全然、関係ないけれど。
(つづく)