ガッコ ノ センセ ノ オトモダチ vol.40

箸休め

「タテマエ ト ホンシン」

 この社会の、そこかしこの組織内の人間関係における様々なトラブルたち。そのトラブルたちの要因の一つとして、このところ、とくに取り沙汰されているのが「コミュニケーション能力(コミュ力)の低下、欠如」である、という。

 そう、コミュニケーション能力の、低下、欠如。

 Aくんは、この、コミュニケーション能力の、その定義がよくわからない、と、かねてより言い続けている。

 

 だいたい、コミュニケーション、って、ナンだ。

 能力、って、ナンだ。

 ナニが優れていて、ナニが劣っているのか。

 コミュ力

 コミュ力、って、いったい、ナンなんだよ~。

 

 たしかに、Aくんのその指摘通り、ソコのところを掘り下げてみようとしても、むしろ、逆に、その「ナゾがナゾ呼ぶナゾナゾワールド」感は膨らんで、一層、ワケがわからなくなる。

 コミュニケーション能力の、低下、欠如、とは、いったい・・・。

 

 聞けない?、聞かない?、聞こうとも思わない?

 理解できない?、理解しない?、理解しようとも思わない?

 語れない?、語らない?、語ろうとも思わない?

 説明できない?、説明しない?、説明しようとも思わない?

 そもそも、ソコに、意味を感じない?、感じられない?、感じようとも思わない?

 価値観が違う?

 相性が悪い?

 大嫌い?

 口も聞きたくない?

 

 ますます、一層、ワケがわからない。

 ただ、仮に、コミュニケーション能力の低下やら欠如やらと取り沙汰されているモノが、そのようなモノであるとするなら、そんなモノは今に始まったコトではなく、ずっと以前から、人それぞれ、苦手であったり、得意であったり、嫌いであったり、好きであったり、みたいな、そんな感じであったはずだ。それゆえ、今ごろになって、ナゼか、ことさら大袈裟に、「コミュニケーション能力」がドウのコウの、などと、仰々しく語っておられる方々に、対して、私は、どうしても違和感を抱いてしまう。

 もとより、私は、この「コミュニケーション能力」問題を、個人の問題と捉えてはいない。むしろ、安易に、個人の問題に掏(ス)り替えようとしている社会の、組織の、問題であるように思えてならないのである。

 そう、その社会、組織自体に、こそ、むしろ問題がある。

 問題のある社会が、組織が、個人にナンらかの圧力をかけ、自由闊達にコミュニケイトしていこうという気持ちを阻害する。そんな高圧的な組織の中で、そんな空気感の中で、真っ当なコミュニケーション能力など、育まれるはずがないのである。そして、ジワリジワリと、無意識の内に、一人ひとりの心の中に様々なモノが棲み付き始める。そうしたモノの中の一つ、ソレが、ナニあろう、「建て前と本心」。

 そう、建て前と、本心。

 この両者の隔たりに、違いに、ズレに、困惑し、相手に対してドウ自分を表現していいのか、自分を、自分の思いを、考えを、そのままストレートに出していいのか、が、全くもってわからなくなる。

 そう、わからなくなる。わからなくなるだろう、普通。

 そして、おもわず言葉を選んでしまう。おもわず言葉を飲み込んでしまう。圧(オ)し殺してしまう。だから、人は、ズンズンとジャマ臭くなって、ズンズンと寡黙になっていくのだろうな、きっと。(つづく)