箸休め
「タテマエ ト ホンシン」
ナニかと慌ただしい巷を、賑わす様々な(とくに組織内での人間関係の)トラブルの要因の一つとして、コミュニケーション能力(省略して「コミュリョク」などと言われたりもしているが)の欠如が取り沙汰されている。
そう、コミュニケーション能力の、欠如。
Aくんは、この、コミュニケーション能力の、その定義がよくわからない、と言う。
そもそも、コミュニケーション、って、ナンだ。能力、って、ナンだ。
ナニが優れていて、ナニが劣っているのか。
たしかに、あらためて、ソコのところを掘り下げて追求してみようとすると、むしろ逆に、その「ナゾがナゾ呼ぶナゾナゾワールド」感は、より深まっていく。
説明不足?、説明しない?、説明できない?、理解しない?、理解できない?、聞かない?、聞けない?、人間性の問題?、そもそも相性が悪い?、大嫌い?、口も聞きたくない?
ますます、ワケがわからなくなる。
しかし、そんなモノであるのならば、今に始まったコトではないはずだ。ことさら大袈裟に、「コミュニケーション能力」がドウのコウの、などと、仰々しく語る必要もないのでは、という思いも、私にはある。
もとより、私は、この「コミュニケーション能力」問題というモノを、個人の問題とは捉えていない。ナンらかの関係をもったその集合体(組織)全体の問題であり、課題である、と、思っている。言い換えれば、安易に個人の問題と捉えているその組織そのものに、ナニかしら怪しいモノを感じているのである。
そう、その組織自体に、むしろ問題がある。
問題のある組織が、個人にナンらかの圧力をかけ、自由闊達にコミュニケイトしていこうという気持ちを阻害する。
ただし、私自身の中にも気になっているコトが、モノが、全くないというわけではない。
私の中にある、私のコミュニケーション能力を阻害しようとしているモノ。ソレは、この心の中に巣食う、「建て前と本心」。
そう、建て前と本心。
この両者のズレに困惑し、相手に対してドウ自分を表現していいのかがわからなくなってしまい、おもわず言葉を選んでしまう。おもわず言葉を飲み込んでしまう。そして、人は、ズンズンと寡黙になっていくのかもしれない。(つづく)