強肴 その七
「ハシルコトジャナイコト デ ハシルコト ヲ ヤル」(末續慎吾)
「走ることじゃないことで、走ることをやる」。
自分、あるいは、自分が取り組んでいるコト、とは、全く関係がない、接点がない、と、思われるコトの中に、自分自身が、陸上短距離走者として更なるステップアップをするためのナニかがある、ということなのだろうか。Aくんお気に入りの、あるアスリートの名言である。
以前からAくんは、「ダレがドコからドウ見ても、全くスキのない、イカにも研修という感じの研修が、無難だということもあって、ハバを利かせている今日この頃であるわけなのだけれど、本来、研修というモノは、そんな研修研修した研修みたいなモノだけが研修ではないんだ!」、と、よく訴えていた。
大切なナニか、ソレは、そこかしこに潜んでいる。
ソレが、Aくんの持論である。それゆえ、ナニモノにも束縛されない自主的な研修権が保障されなければならない、というわけだ。そういえば、あるノーベル賞受賞者も、無駄のように思える研究からナニかが生まれてくることがある、みたいなコトを言っていたように記憶する。
しかしながら、そんなAくんの「真実の研修」論も、「ナンだカンだ言ったところで、結局、お生まれもお育ちも良い血統書付きの、実に詰まならない、広がりも深みもない、お決まりの、形だけの研修でないと研修とは認めてもらえないわけで、ホント、もう、ドンドンと、学校の先生のヤル気も脳ミソも萎(シボ)んでいくわけよ」、という、ヤケクソ気味の悲しきボヤキで幕を下ろすのが、このところのオキマリみたいになってしまっている。
その気持ち、わからなくはないけれど、ソレでも、やっぱり、ナンとしてでも、ヤル気も脳ミソも萎んでしまう、なんてことだけは、この国の教育の未来のためにも、絶対に避けてもらいたい、と、思う。
がんばれ、Aくん!
電光石火で「おまえもがんばれよ!」、と言い返されてしまいそうだけれど。
(つづく)