強肴 その五
「サイアクチュウ ノ サイゼン デ アッタ」 (白洲次郎)
戦中戦後のダンディーな暴れん坊、白洲次郎。なぜかAくんのお気に入りなのである。
お金持ちで官僚。この二つだけでも、充分に、Aくんの恰好の標的になりそうなものなのに、ナゼだろう。
あくまでも私の推測だが、もしかすると、相手を選ばないその自由闊達な口の悪さに、共感するモノがあるからなのかもしれない。
そんな白洲次郎のこの言葉、「最悪中の最善であった」は、GHQの戦後処理に対する彼なりの総括的な評価だ。
そして、この「最悪中の、最善」、Aくんが多用するコトバの一つでもある。
では、なぜ、この言葉が、私の中でも屈指の名言になり得たのか。
ソレは、・・・。
たとえば、トンでもなく最悪な時、私たちは、そう簡単には頑張れない。たいていは、「もうナニをやってもダメ、どうせたいしたことはできない、やってもやらなくても同じこと」などなどと、どうしても、ついつい失望感まみれの情けないセリフを吐いてしまいがちだ。しかし、しかしながら、これからのこの世界は、そうそう絶好調などということはないであろうし、コトと次第によっては、トンでもなく最悪な状況の砂地獄にズルズルズル~というコトも充分にあり得る。もう、世界は、そういう時代に突入してしまっている、と言っても過言ではないかもしれない。
そんな時代だからこそ、この白洲次郎の言葉が意味も力ももつのである。
つまり、私たち一般ピーポーごときが、最悪そのものを丸ごと全て最善に変えてしまおうなどという大それたことを、おいそれと考えてはいけない、ということだ。生真面目に、そんなストレート過ぎるキモチで臨んでしまえば、場合によっては、いや、かなりの確率で、見も心もボロボロになってしまうに違いない。しかし、だからといって、最初から、「もうナニをやってもダメ、どうせたいしたことはできない、やってもやらなくても同じこと」では、あまりにも悲しいし、空しすぎる。
ソコで、あの白洲次郎のこの名言の出番。
そう、「最悪中の最善」、コレで充分なのである。
それ以上のコトは、とりあえず、あの、シモジモじゃないエライ人たちにでもお任せしようか。
ん~・・・。
残念ながら、どうも期待薄なようなので、ココはやっぱり神さまに、仏さまに、お願いするしかないかな。(つづく)