鉢魚 その八
「アマイオカシ(イ)ナラ オカシクナイ?」
ドコからドウ見てもドウ考えても、「モンダイアリ!」としか思えないようなコトであったとしても、上手くいっていれば、上手くいっているようにさえ見えていれば、「モンダイナシ!」。たとえば、カラダにトンでもなく悪い「オカシ(お菓子)」であったとしても、アマ(甘)ければ「オカシ(可笑し)、クナイ!」、みたいなコトが、ひょっとするとそこかしこであったりするのではないか。そもそもこの国は、「オカシ、イ」から目を背けて躍進(?)してきたのではないのか、というような、そんな気さえしてきてしまう。だからこそ、そういったあらゆるオカシいコトから距離を置く教育現場が大切なわけで、距離を置いているからこそオカシいコトに対して問題提起をするだってできる、というのに、なんと、行政が、国が、ズカズカと、ソコに土足で踏み込んでき始めたものだから、少し雲行きが怪しくなってきたというわけよ。と、Aくん、あの日、お酒の力も借りて、ジワリジワリとクレッシェンドに、憤りやら嘆きやらを増殖させながら滔々(トウトウ)と語っていたことをリアルに思い出す。
過去の悪しき経験から、教育は教育として何事にも動じないモノであらねばならぬ、と、学んだ結果、周囲の諸々から距離を置いてきたにもかかわらず、思い通りにならなぬ、と、いうことで、教育現場にズカズカと、と、いうのは、あまりにも稚拙で短絡的、そして乱暴すぎる、と、Aくん、更に一層ヒートアップ、していたな~。
本来、行政が目指すべきものは「バックアップ」であり、現場がよりスムーズに様々な教育活動を実践していくことができるための愛ある「後方支援」でなければならない。このことは、けっして忘れるべきではない、と、熱く結論付けたAくんの、そのあまりの声の大きさに、その時、おもわずヒヤヒヤとしてしまった小心者の私。さりげなく周囲をチラ見しながら、「おっ、ダレもコチラを見てはいないな」などと思いつつ、ホッとしつつ、柑橘系の香り爽やかな真鯛のタルタルを、口一杯に頬張ったのである。(つづく)