鉢魚 その七
「ココロニヨイモノ ハ ヨイ」
耳を疑いたくなるような、情けないニュースにはコト欠かない今日この頃。この国に生きる者として(というより、この星に生きる「人」として、かな)のプライドは、一体全体、ドコへいってしまったのだろう、と嘆くことしきり。
ココロに良いモノを、ココロに悪いモノが圧倒する時代。実に厄介な時代だ。
しかしながら、だからこそのココロに良いモノなのだ、と、Aくんは考える。
いつもながらのわかりにくさである。それゆえ、珍しくその時は、勇気を出して、その意味を尋ねてみる。と、Aくん、簡潔に、こう答えてくれたのである。
人はココロに良いモノで満腹になると、ココロに良いモノに気付かなくなる、感じなくなる、感じられなくなる。
そう答えてはくれたものの、そのわかりにくさは、そのまま。しかしながら、珍しくその時は、私なりに、ふと、きっとコレは、あの、「タナカラボタモチ」理論ならぬ「タラナイカラボタモチ」理論だな、と、思ったわけ。
そう、足らないからボタ餅、タラナイカラボタモチ理論。
ココロに悪いモノばかりだからこそ、ココロに良いモノが足らないからこそ、ココロに良いモノが際立つんだ、ココロが求めるんだ、ココロに染みるんだ、とね。
Aくんは、そんなココロに良い授業を夢見る、そうだ。
「ソレはどんな授業ですか?」、と私。
「ソレがわかれば苦労はしないよ」、とAくん。そう言ったあと、すぐに、ソコに補足するように、「大事なのは、そのココロイキだ」、と。
ココロイキ?、 ココロ行き?、ココロへ行く?。
あっ、あ~、そうか~。
なるほど、なるほど、ココロに向かって突き進む、から、「ココロイキ」、な、わけだ。そうか、そうか、上手く言うよな~、まったく。などと、ブツブツ独り言ちつつズルズルと、自分の世界に入ってしまう。
Aくんには申し訳ないけれど、いつだって、そんな小さなキッカケだけで、私は、ついつい、人の話をちゃんと聞いているようで、実は、ほとんど聞いていない、というような、そんな、実に失礼な私になってしまうのである。(つづく)